知花昌一さん(2021年撮影)
チビチリガマで開かれた慰霊祭(2021年4月、代表撮影)

 一方、チビチリガマから1キロほど離れたシムクガマでは、約1千人の住民が避難していたが、ハワイ移民帰りの男性2人が「アメリカーは住民を殺さない」と住民らを説得し、全員が救われている。高橋さんが声を落とす。

「情報や教育が人の命を救うか、殺すかに直結したのです。恐ろしいことです」

 集団自決の真相が明らかになってきたその時期、国は「日の丸」「君が代」の強制を始めた。85年、文部省(現・文部科学省)は全国の公立学校の卒業式と入学式の「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱の実施率を調査。実施率が低い自治体の教育委員会に対し、「国旗と国歌の適切な取り扱いの徹底」を求める通知を出したのだ。実施率が特に低かった沖縄は、この文部省通知が強力な締め付けとなった。

 読谷村では沖縄戦で多大な犠牲者を出しており、村の面積の48%(現在は36%)を米軍基地に占領されていることから、「日の丸」「君が代」への抵抗感が強かった。読谷高校の卒業式では、生徒が日の丸を拒否するという事態が起きていた。

 87年、沖縄県で海邦国体が開催された。知花さんは日の丸の強制に抗議するため、読谷村のソフトボール競技会場に掲げられた日の丸をスコアボードによじ登って引き下ろし、焼き捨てた。現在、浄土真宗の僧侶となった知花さんは、当時のことを穏やかな口調で振り返る。

「高校生が日の丸を拒否する行動を取った時、そこまでやるかと大変なショックを受けました。高校生が真剣に考えて行動しているのに、大人たちは何もしなくていいのかと思ったのです。当時、チビチリガマで起きたことについて大人たちが語りだし、それを身近に聞いていた子どもたちにも影響を与えたのです」

 今回、高橋さんは知花さんと積もる話ができたという。その後、高橋さんは直腸がんで失った肛門部の痛みがひどくなり、歩くことさえつらくなった。残念ながら「慰霊の日」の23日まで滞在することは困難と判断し、帰宅せざるを得なかった。高橋さんが言う。

「慰霊の日は、松本から精いっぱいの祈りを送りました。僕らはヤマトゥ(本土)であるがゆえに当事者になれないという慚愧(ざんき)の念にさいなまれますが、悲しい歴史を体験し、いまも常に戦時体制を取らざるを得ない状況に置かれている沖縄とこれからも真摯に向き合い続けていくしかありません」

 高橋さんの沖縄への向き合い方は、「本土」に生きる私たちの指針となるだろう。

(ジャーナリスト・亀井洋志)

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