とはいえ、「羽生結弦」の重たさは、そういった重圧からくるものだけでなく、彼の容姿やその演技からは一見かけ離れているように見える日本的な「男らしさ」が見え隠れすることも大きな要因だろう。

「この度、私、羽生結弦は入籍する運びとなりました」

「羽生結弦」の結婚報告は、この一文のみだ。その後に続く文章では相手の女性について一切触れない。そのことをもって「妻をメディアから守るための配慮」と絶賛する人もいるが、不自然なほどの妻の不在は、妻となる人が生涯「羽生結弦の妻」というポジションでは社会に出てくることを「羽生結弦」として許さない、という決意と緊張感を与えるようにも読める。今までと変わらずに「羽生結弦」は「羽生結弦」であるとの宣言も、「羽生結弦」が何よりも優先されるべき結婚生活を送ることであると暗に知らしめるように感じるが、「男の偉大な仕事」が優先されるべき結婚というものが、妻にとってどのようなものになるのかは……フェミニストとしては様々な事例から不穏なものを感じてしまうのである。重たいよ、女にとって、「羽生結弦」というプロジェクトとの結婚だなんて……。

 ちなみに、結婚とは「入籍」ではなく「新しい籍を二人でつくる」ことである。夫の籍に妻が入るという戦前の戸籍のイメージが継承されているため「入籍」という言葉を未だに使う人はいるけれど、20代の若い男性が敢えて「入籍」と言うのを聞くと、そもそも男性にとっての結婚とは、名前も変えず、生き方も変えず、本気で「オレの籍に嫁が入る」くらいのものなのだろうなーと目が遠くなる。ジェンダーを越境する魅惑的な演技で世界中を虜にした「羽生結弦」のジェンダー観を知りたくないと思っている私がいる。

 ところで、新しい時代のスポーツ界のスター、「オータニサン」には何故悲壮感がないのだろう。オータニさんは自分のことを「オータニ」とか言いそうもないのは何故なのだろうか。オータニさんは、妻と対等な結婚をしそう……と期待させてくれるのは何故なのだろう。「オータニサン」のことを考えるとなんだかワクワクしてしまう。そんなことも、新しい日本の男らしさを考える一つのテーマかもしれない。

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北原みのり

北原みのり

北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表

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