さらに言えば。もっと気楽でいいのにー! と思わせる緊迫感が「羽生結弦」にはある。羽生結弦さん本人だけでなく、「羽生結弦」を前に緊張や感激のためか声を震わせる取材者などがいるほどだ。そういう空気があるのだろう。
なぜそういう気持ちになってしまうかといえば、羽生結弦さん自身が、「羽生結弦」の大きさに振り回されながらも、「羽生結弦」が「偉大なプロジェクト」であることを自覚し、それを躊躇なく語り続けてきているからだろう。実際、競技から退く記者会見で、羽生結弦さんはこう言っている。
「僕にとって『羽生結弦』という存在は常に重荷です。すごく重たいです」「いつもいつも『羽生結弦』って重たいなと思いながら過ごしている」「もっといい『羽生結弦』でいたい」「『羽生結弦』という存在に恥じないように生きてきたつもりです」
こんなことを20代の若者に言わせるスポーツって何なのだろう……と、ただの一般人の女としては不思議な気持ちになるのである。あまりに可哀想ではないか。もはや、「フィギュアスケートが好きだから滑っている」という伸びやかさや軽さは「羽生結弦」にはない。東北を背負い、ジャパンを背負い、「羽生結弦」というプロジェクトを背負う真剣。それはスポーツというより、アスリートとしての「羽生結弦」を別人格におくことで自分を守り続けた一人の人間の、儀式めいた何か、に参加させられているような気持ちになってくるのである。
羽生結弦さんの演技がサムライの儀式のようにしか見えなくなったのがいつ頃だったか、羽生結弦さんが自身のことを「羽生結弦」とフルネームで呼ぶのが気になるようになったのがいつ頃だったか、もう忘れてしまうくらい前のことだけれど、「羽生結弦」という存在は、王座に座り続けることでしか存在意義がないとされる競技の世界の残酷を私たちに突きつける。その残酷すらショービジネスとして、私たちは楽しむべきなのかと重たい問いを突きつけてくる。