「多くの読者は小説の文章を読みたいわけじゃなくて、物語の世界観に入り込みたいんだと思うんです。僕は小説を書くようになってから、文章そのものに注目して読むようになってしまったから、物語の世界観に直接触れることができなくなっている」

 そんな小田さんの実感が反映された作品だ。

 小田さんは30代半ばまで趣味のバンドでベースを演奏していたが、小説の締め切りを抱えていると、気持ちが向けられなくなっていった。

「短編や中編はだいたい締め切りの1カ月前に書き始めるんですけど、話を思いつかないこともある。それがすごい怖くて、自分にハラハラしながら書いています。小説を書き上げること自体は好きなんですけど、書くのは苦しい」

 山頂には行きたいが、登るのはつらい。つらい中でも、今まで書いたことのない新鮮な作品を目指す。右に行っても左に行っても自分が既に立てた旗が見えるので、その隙間を縫うようにして新しい小説を書こうとしているという。

 となると、脱稿後には至福の時間が訪れるのでは?

「それもせいぜい5、6時間ですね。今度は編集者の方にどう言われるのかが心配になってきて……。この本を出すにあたって、僕としてはやれることはやった。あとは運を天に任すしかないという気持ちです」

(ライター・仲宇佐ゆり)

AERA 2023年8月7日号