――ただ、後任の黒田総裁になると、日銀は「2年」の目標期限を掲げてしまいました。そうなってしまったのは、2%目標を設けたことがそもそも間違いだったのではないですか。

白川:民主主義のもとで、日銀は(国民から金融政策を)白紙委任されているわけではありません。それに日銀法で政策目的が「物価の安定」と決まっている以上、日銀は国民に対して数字的なイメージをあるていどは説明する必要があります。だから、そこまではやむをえないと判断しました。とはいえ、経済の不均衡がすべて物価に表れるわけではありません。1980年代後半の日本を含め、近年の国内、海外のバブル経済はいずれも物価が安定するなかで起きています。本当は2%がいいか1%がいいか、という目標数字が本質的な問題ではなく、一つの数字に過度にこだわらず、金融の不均衡を含めて持続可能かどうかを点検することが大切なのです。

――総裁当時の白川さんは「緩和効果の限界を正直に説明しすぎる」「もっと政策効果があると演じるべきだ」という批判もされましたね。

白川:グローバル経済という外部環境に恵まれれば、演技に効果があるように見える局面はあるでしょう。でもそんな効果は長続きしません。いずれその言葉に日銀自身が縛られ、持続可能性のない道にはまりこむことを懸念しました。政策の大前提は、(正直に説明する)日銀の誠実さに対して国民の信頼があることです。

――安倍政権がリフレを掲げた目的は「デフレ脱却」でした。それにしても日本は本当にデフレだったのでしょうか。

白川:緩やかな物価下落が生じたのは事実です。それをデフレと定義すればデフレです。98年から2012年までの15年間で物価は累計4%弱、年率で0.3%下落しました。しかし、これが日本の低成長の根本原因とは思えません。もしそうなら2000年以降の日本の成長率が1人当たりではG7(先進主要7カ国)の平均並み、生産年齢人口1人当たりでは最も高いという事実は説明できません。

――それでも多くの人が「デフレが日本経済の最大の問題」と信じこんでしまったのはなぜだったのでしょうか。

白川:多くの国民は「デフレ」という言葉を物価下落という意味より、将来の生活不安など現状への不満を表す言葉として使ったのでしょう。他方でエコノミストにとって、デフレは1930年代の大不況を連想させる恐怖感の強い言葉でした。「失われた20年」という言葉のナラティブ(物語)の心理的作用も大きかったのでしょう。アジェンダ(課題)が正しく設定されなかったように感じています。

――正しいアジェンダは何だったでしょうか。

白川:最も重要なのは超高齢化への対応と生産性向上です。金融緩和とは、将来需要を「前借り」して「時間を買う」政策です。一時的な経済ショックの際、経済をひどくしないようにすることに意味があります。でもショックが一時的ではない場合、金融政策だけでは問題は解決しません。

●原 真人(はら・まこと)
1961年長野県生まれ。早稲田大卒。日本経済新聞社を経て88年に朝日新聞社に入社。経済記者として財務省や経産省、日本銀行などの政策取材のほか、金融、エネルギーなどの民間取材も多数経験。経済社説を担当する論説委員を経て、現在は編集委員。著書に『経済ニュースの裏読み深読み』(朝日新聞出版)、『日本「一発屋」論─バブル・成長信仰・アベノミクス』(朝日新書)、『日本銀行「失敗の本質」』(小学館新書)がある。

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