その場には緊張が走り、同士討ちにもなり兼ねなかったが、騒ぎを聞き付けて駆け付けた会津藩の軍奉行や公用方の取り成しにより、ようやく収まった。駆け付けるのが少しでも遅かったならば一大事になったと伝えられる。 

久邇宮朝彦親王(中川宮)。中川宮は公武合体派だった。公武合体派は長州藩と結託して朝廷を牛耳っていた尊攘派を苦々しく思っていたという。(写真提供/国立国会図書館)
久邇宮朝彦親王(中川宮)。中川宮は公武合体派だった。公武合体派は長州藩と結託して朝廷を牛耳っていた尊攘派を苦々しく思っていたという。(写真提供/国立国会図書館)

 無事に蛤御門から御所内に入った浪士組は、堺町御門の警備の任を解かれた長州藩士が退去する際には南門(建礼門)前の警備を命じられた。その時、武家伝奏を勤める公家から「新選組」の名を与えられたという。 

 八月十八日の政変直後の同二十一日、新選組が京都の見廻りを行う旨が市中に触れられた。その際、手に余れば斬り捨ててもよいという権限が新選組に与えられている。 

 この日以降、新選組は京都守護職の会津藩や京都町奉行所と連携して尊攘派志士の掃蕩を目指した。二十二日には、五条付近に潜伏していた尊攘派志士の平野国臣の行方を町奉行所とともに追跡している。 

 二十五日以降、新選組は手分けして町内を毎日巡回し、人別を改めた。不審な者が住んでいないかを取り調べたわけだが、人別帳に載っていない無宿者はどしどしと捕らえたため、浪人は一時京都にいなくなったという。それだけ、新選組による取り調べは厳しかったことがわかる。 

 新選組による京都市中の見廻りはたいへん恐れられたが、そのぶん、尊攘派志士からは憎悪の対象として見られたのである。

 ※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から

▼▼▼AERA最新号はこちら▼▼▼