八月十八日午前一時、会津・薩摩藩と気脈を通じる中川宮や公家たち、京都守護職・松平容保、京都所司代の淀藩主・稲葉正邦が御所に参内した。

御所警備の中枢を担っていた京都守護職・会津藩主の松平容保。会津藩が動員した兵数は1800だったとされ、浪士組52人は会津藩の配下として参陣した。(写真提供/国立国会図書館)
御所警備の中枢を担っていた京都守護職・会津藩主の松平容保。会津藩が動員した兵数は1800だったとされ、浪士組52人は会津藩の配下として参陣した。(写真提供/国立国会図書館)

 そして、会津・淀藩兵に加えて薩摩藩兵を御所各門の警備に付かせた上で、三条たち尊攘派公家の参内差し止めを達した。その後開催された朝廷の会議で、長州藩に対して堺町御門警備の任を解くこと、京都から退去を命じることが決まる。

 まったくの不意打ちであった長州藩は激しく反発するが、御所から締め出された上に諸藩の間でも孤立を深めていたため、結局は政治的敗北を認めざるを得なかった。翌十九日、三条たちを擁して帰国の途に就く。

 長州藩は一夜にして幕末の政局の舞台だった京都から追放され、失脚した。世に言う八月十八日の政変である。

 この時、会津藩の配下として浪士組も出動している。その頃、浪士組の数は52人に増えていた。

 新選組のトレ―ドマークとなる浅葱色のダンダラ羽織を着用し、誠と忠の字を付けた提灯を持って出陣した浪士組は御所の警備にあたった。会津藩から支給された黄色のタスキを目印として付けていた。

 その際、一つのエピソードが残されている。会津藩が守る蛤御門から御所内に入ろうとした際、警備の会津藩士から怪しまれて通過できなかったという。

 浪士組の面々はどうしても御所に入ると言い募り、藩士たちが抜き身の槍で詰め寄っても引き下がらなかった。芹沢などは顔の先に出された槍の穂先を腰から出した扇で煽ぎ、悪口雑言を並べ立てた。

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