三条実美。三条は尊攘派。公武合体派は長州藩と結託して朝廷を牛耳っていた尊攘派を苦々しく思っていたという。(写真提供/国立国会図書館)
三条実美。三条は尊攘派。公武合体派は長州藩と結託して朝廷を牛耳っていた尊攘派を苦々しく思っていたという。(写真提供/国立国会図書館)
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 幕末、京都の治安を守る特別警察として活躍した新選組。尊攘派の浪士はもちろん、市井の人々からも畏怖された存在だったという。その武名を轟かせた5大事件の舞台裏を追う。

尊攘派を苦々しく思っていたという公武合体派の中川宮

 文久三年(1863)二月二十三日に浪士組が上洛した頃、京都では尊王攘夷の嵐が吹き荒れていた。その黒幕は長州藩であった。

 前年以来、長州藩は攘夷運動の先頭に立つことで幕末の政局の主導権を握ったが、幕府が朝廷に攘夷実行の期日として約束した同年五月十日に、下関海峡を航行するアメリカ船に砲撃を加える。その後、フランス船やオランダ船にも砲撃したが、六月一日にアメリカ軍艦、五日にはフランス軍艦の報復攻撃を受けて同藩の軍艦は撃沈され、砲台も破壊された。欧米列強の前には、既存の軍事力など全く無力である現実を長州藩は思い知らされる。

 長州藩がアメリカ船などに砲撃を加えて手痛い反撃を受けたことに、諸藩は強い危機感を抱く。このままでは日本全体が欧米列強との戦争に巻き込まれてしまうと危惧した。

 そうしたなか、長州藩をバックとする三条実美たち尊攘派公家の主導のもと、孝明天皇みずから攘夷のために親征する計画が八月十三日に朝廷から布告される。だが、攘夷は字句の通り征夷大将軍たる徳川将軍家の職掌であり、この親征計画とは、将軍ひいては幕府の存在を否定するものに他ならなかった。要するに、倒幕計画でもあった。

 その結果、政局の主導権を長州藩から奪い返そうとする動きが急速に沸き上がる。長州藩が攘夷実行を主張することで朝廷を牛耳った現状を苦々しく思っていた薩摩藩はこれを好機として、長州藩追い落としのため京都守護職を勤める会津藩などと手を組む。孝明天皇は攘夷主義者ではあったが、三条たち及び後ろ盾の長州藩に引きずり回される朝廷の現状に不快感を抱いており、政変の決行を認める。

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長州藩の追放を決定