江戸の町火消「め組」と相撲取りとの乱闘を描いた錦絵。梯子や角材を軽々と振り回す力士は、喧嘩では最強とも言われる存在だった。(「新撰東錦絵 神明相撲闘争之図」国立国会図書館所蔵)
江戸の町火消「め組」と相撲取りとの乱闘を描いた錦絵。梯子や角材を軽々と振り回す力士は、喧嘩では最強とも言われる存在だった。(「新撰東錦絵 神明相撲闘争之図」国立国会図書館所蔵)

続いて新選組と命名される直前の同年八月十二日に、浪士組が京都で起こした大和屋焼き討ち事件が起こった。 

 葭屋町通一条上ルで生糸商を営んでいた大和屋庄兵衛は、開港により多大な利益を上げたため、芹沢に目を付けられる。尊王攘夷派の志士たちに活動資金を提供したことを耳にしたためともいう。 

 よって、芹沢は浪士組の活動資金を提供するよう大和屋に申し入れた。だが、断られたため、その腹いせから報復行為に出る。 

 その日の午後8時頃、芹沢たち30数人が大和屋を取り囲む。土蔵周辺の貸家を壊して周囲に延焼しないようにした上で、商品が収納された土蔵に火を掛けた。出火を知った火消人足が駆け付けて消火にあたろうとしたが、芹沢たちの妨害に遭い、土蔵が全焼するのをただ見ているだけだった。 

 この二つの事件は芹沢たちが起こした事件だが、とりわけ大和屋焼き討ち事件は暴挙でしかなかった。 

 浪士組への批判が高まるのは避けられなかった。かねてより、芹沢たちの振る舞いは内部からも問題視されていたが、今回の焼き討ち事件は京都の治安を乱す行為であった。浪士組を管轄下に置く会津藩としても、到底看過できるものではなかった。 

 近藤は芹沢の粛清に踏み切るが、会津藩からの内命もあったという。九月十八日に芹沢たちは暗殺され、その後は近藤が浪士組改め新選組を牛耳ることになる。 

※週刊朝日ムック『歴史道Vol.28 新選組興亡史』から

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