<がんばってるんだけれども、映ると隙間があるんだよね。なんだか上手っていうよりなんだかまだ持て余してるっていうか。わかんないんだけれど、映っていない部分の方がおもしろいんじゃないかなって感じがしたね>(注3)

 相米監督は、小泉今日子の中に「まだ演技の中で表現されていない鉱脈」を発見したのです。2001年に公開された次回作『風花』に、小泉今日子を主役として彼は起用します。

 永瀬正敏のデビュー作『ションベン・ライダー』のメガフォンをとったのは、相米監督でした。演出家と若き俳優は、この映画の撮影を通じて深い信頼で結ばれます。二人はそれからずっと、精神的な親子も同然でした(注4)。相米監督が小泉今日子の演技に目をとめたのも、「息子の嫁」への興味がきっかけだった可能性はあります。

『風花』に参加したことは、小泉今日子の演技に画期的な変化をもたらしました。このときの彼女の役柄は、娘を実家に預けて風俗嬢をしているレモンという女性です。『風花』の撮影をふりかえって、小泉今日子はこう言っています。

<レモンの感情みたいなものを考えていたときに、それが自分のものなのかなんかよくわかんなくなっちゃうみたいな。軽く狂っちゃってるかも(笑)って気持ちを初めて感じました。(中略)あのとき私がこういう人生を選んだんじゃなかったら……とか、よく自分がわかんなくなっちゃう感じがしてきて。永瀬くんと結婚して、たまに彼がそういう顔をしているところを見たことがあって、何なのこの人って思ってたんだけど、それが初めて実感として理解できたって感じ>(注5)

 ここで小泉今日子が述べている境地は、いわゆる「憑依状態」とは違うようです。別のインタビューで、彼女はそれをこんな風に説明しています。

<小泉:(『風花』や『空中庭園』―2006年公開―の撮影中は)自分が散らかった部屋になっちゃってるみたいな感じ。その中に気になるものが一個ある、そういう感じ。一個片付ければ済むものじゃなくて、気になるものの為に全部を片付けなくちゃいけない。すごく片付けたいんだけど、片付けたら気持ち悪そう。散らかっていることは気になるんだけど、その罪悪感みたいなものが、ちょっと心地よくなってくるみたいな。

――罪悪感?

小泉:そう、その役が私の中の罪悪感みたいかも 。(中略)

――人によっては「役に入り込んだ」と言ったりするけど、そういうのともまた違う?

小泉:思い入れは勿論あるんですけど……なんか入り込むって気持ち良さそうでしょう? さっきも罪悪感っていう言い方をしたけど、爽快感はないから>(注6)

 人は誰しも、他人には見せられない「醜い感情」を心に秘めています。嫉妬心、苛立ち、生理的な嫌悪……それらは、サイコ・スリラーのネタになるような「異常心理」ではありません。生きている限り抱えないわけにはいかず、その人の「核」と切り離させない――そんな、胸の底深く隠された「闇」の領域です。

 小泉今日子が『風花』で到達したのは、演者自身の「闇」を芝居に託して表現する境地でした。「役が私の中の罪悪感みたい」という言葉は、そのことを示しています。

 相米慎二が小泉今日子に感じた「持て余してる部分」とは、おそらくこの「闇」のことです。「異常心理」を演じる彼女を見たからこそ、そこに投入されていない「闇」に気づいたのかもしれません。

 人間は、自分の「核」から目を背けたままで幸せになることは不可能です。時には「闇」を見すえる必要があります。とはいえ、そうした部分は存在を認めることだけでも楽ではありません。
 このとき、映画や小説といったフィクションが役に立ちます。つくり手は、虚構の中におのれの「闇」を注ぎこむ。見る側は、作品に投入された「闇」を眺めてみずからのそれに思いをはせる――そういうキャッチボールが、すぐれたフィクションでは起こります。

 小泉今日子はレモンを演じることで、「闇」を作品に結びつける一線級の表現者になりました。そして、そのことの意味を彼女がすぐ了解できたのは、同じ家にいる「永瀬くん」を見ていたからでした。

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