「全部、どうでもいい記憶です。でもそれは、一つ残らず水泳がぼくに与えてくれたもの。ぼくの記憶や思い出は、どんな小さなものも全部水泳とつながっているのだと知りました」
生後6カ月でプールに入り、ひたすら泳ぎ続けた26年間。精神的に苦しいなかで迎えた東京五輪だった。
「水泳からこんなにも多くのものを得たぼくは、じゃあ最後の試合、どうするんだ?と考えたんです。答えは1つでした。当たり前なんですけど『全力で泳ごう』と。そのとき気づいたんです。全力で泳ぐことが、ぼくの、萩野公介の泳ぐ理由なんだなって」
東京五輪の200メートル個人メドレーは6位。ゴール直後、萩野さんの笑顔がはじけた。メダルをとるためでも記録をのばすためでもなく、「全力で泳ぐ」ために泳ぎ続けてきた萩野さん。だからこそ、笑顔だった。
自分なりの答えは出た。でも自分以外の人はどうなのか? 「このテーマをもっと深くつきつめたくて」大学院への進学を決めた。しかし、それがどの研究ジャンルに当てはまるか皆目見当がつかなかったそうだ。
「母校の東洋大学でスポーツ史を研究している先生に相談すると、『それはスポーツ人類学だと思うよ』と言われました。さらにその分野の第一人者である日本体育大学の石井隆憲教授(現学長)を紹介していただきました」
スポーツ人類学とは耳慣れない学問ですね、と聞くと萩野さんも「実はぼくも初耳でした」と笑う。
「人類学って、人類を通じて人類を学ぶ学問なのだそうです。だから史学も文学も社会学も哲学も、人間にまつわる学問はぜんぶひっくるめて人類学。スポーツもその一つで、人から人を学ぶというのは興味深いと思いました」
石井教授との面接や試験を経て、 22年4月、萩野さんは日体大大学院の体育学研究科に進学した。現在は博士前期(修士)課程の2年目。修士論文の準備を進めている。
「現段階では、3人の元トップスイマーの方にインタビューしてオーラルヒストリー(口述の個人史)を聞いています。いつどこで生まれて、なぜ水泳を始めて、どのスクールに通って、きょうだいは何人いて……ものすごく細かいことを聞きます。『スポーツとは』『水泳とは』という大きな枠ではなく、Aさんにとっての水泳とは、Bさんにとっての水泳とは、ということが聞きたい。水泳をマクロではなくミクロでとらえて、細かく細かく分析していきたいと思っています」