CALL4は19年の活動開始以降、実際の裁判を傍聴するツアーや裁判費用を集めるクラウドファンディングの実施、訴訟の背景を知るために原告への取材記事の発信などを通して、公共訴訟を支援してきた。
能條は自身の問題意識をより多くの人に共有してもらい、世論を喚起する難しさも感じていた。CALL4との出合いで、「社会を変えるには司法、公共訴訟という手段があるんだ」と気づいたという。
■予算をかける国に対し“手弁当”で戦う限界
CALL4の創設者で、代表理事である谷口太規(44)は大学では哲学や社会学を専攻していた。卒論のテーマにアクティビズムを選んだことで、人には社会を変える力がある、大事なのは力を発揮するために話し合うプロセスだと感じるようになった。「その場を推進できる“代理人”になろう」と司法試験を受け、弁護士の道に進んだ。
谷口が公共訴訟を強く意識するようになったのは司法修習時代だ。師事した弁護士が岡山で、ハンセン病患者が原告となった国家賠償訴訟を担当していた。裁判の過程で、谷口は原告たちが変わっていくのを目の当たりにした。
「最初は裁判をすることすら躊躇していたおじいさんやおばあさんたちが、徐々に自分たちが受けた被害を語るようになった。耳を傾けてくれる人がいて、公に認知されることは人間の尊厳のために大事なことなのだと気づいたのです」
弁護士になって6年目には、ガーナ出身男性の在留資格をめぐる訴訟を担当した。訴えが認められず、強制送還される過程で、男性は入管職員によって手錠や足錠、猿ぐつわ姿で押さえつけられ急死した。彼の妻と母が原告となって、死の責任を問う国家賠償訴訟を起こしたが、国は心臓の特殊な病気のせいだと主張。何人もの医師を法廷に連れてきて証言させた。
一方の弁護団には協力してくれる医師がいなかった。谷口らは必死で英語の文献を読み、制圧行為が死につながることを研究しているイギリスの専門家を見つけ出した。一審では国の責任が認められたものの、控訴審では敗訴。多額の予算をかけ、研究者を雇い、再現実験までやった国に対し、弁護団はそれを翻せるほどの根拠を見つけられなかった。10年に彼が亡くなってから6年間、弁護団は翻訳費用が捻出できない中、徹夜して慣れない英語の医学論文を読み、数百枚もの書面を書いた。