
週3度の透析、前立腺癌、冠動脈狭窄――。作家で元外務省主任分析官の佐藤優さんが、自身の病に向き合う『教養としての「病」』を主治医と共に上梓した。病における教養とは、当事者意識とは何か。一部を紹介する。
透析導入に至るまでの私と病気の関係について振り返っておきたい。私は慢性腎臓病になった最大の原因は、生活習慣によるものだったと考えている。特に過食による肥満だ。
1979年4月に同志社大学神学部に入学したときの私の体重は62キロだった。身長が167センチメートルだったので、ごく標準的な体重だ。それが大学院を出たときには83キロに増えていた。修士論文を書く過程で机に向かって本を読み、文書を書くのと、外交官試験の勉強が重なり、ほとんど運動をしなくなったのでそうなった(もっとも小学校のときから体育は苦手科目で、運動は嫌いだ。今でも大学の単位で体育を落としそうになる夢を見ることがある)。
1985年に外務省に入省し、86年から1年間、イギリスに留学しているときにだいぶ痩やせて体重は65キロになった。87年にモスクワに異動してからもこの体重を維持していたが、88年6月にモスクワ大使館の政務班で勤務し、89年頃からロシア人と会食をしながら情報を取るようになってから急に太り始めた。場合によっては、昼食と夕食をそれぞれ2回ずつとることもあった。
1日の摂取カロリーは5000キロカロリーを軽く超えるので太るのも当然だ。90年には100キロを超えるようになった。ときに110キロくらいになることもあったが、絶食をして100キロまで体重を落とした。
中学生時代からショートスリーパーで睡眠時間は3時間台だった。それがモスクワ勤務時代も日本の外務本省で働いているときも続いた。2002年5月14日に鈴木宗男事件に連座して、東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、東京拘置所の独房に勾留されると夜9時から朝7時半まで床に入っていることが強制されたが、なかなか寝付けずに辛い思いをした。拘置所から保釈されるとすぐに3時間台の睡眠に戻り、それが透析を導入するまで続いた。透析導入後は、疲れやすくなり毎日6~7時間は眠るようになった。
モスクワ時代には、年に2回くらい扁桃腺を腫らし、41~42度の熱を出すようなことがあったが、本格的な対症療法で済ませていた。今になって思うとこの扁桃腺炎が腎臓に悪影響を与えていたのだと思う。