■日本経済の明るい話を追い求めた携帯産業がシリコンバレーにディスラプト

 当時の日本の明るい経済ネタは携帯電話だった。1990年代半ばから終盤には日本の携帯電話やPHSがどんどん小型化し、高機能化し、iモードや他社の似たようなプラットフォーム・サービスによって劇的に進化していた。

 当たり前のように学生も若者もみんな日本では携帯電話をもっていた。しかし、私が1997年にスタンフォードに入学したときには誰ももっていなかった。しかもアメリカの携帯電話はドリフのコントのような靴サイズのものが普通だったのだ(ちょっと大げさだが、そのくらいの違いに感じた)。日本が世界を10年リードしているなら、絶対この分野では「世界を取れる」と思った。

 しかし、もちろん結果的にはまったくそうならず、その10年後にはシリコンバレー発のスマートフォンにディスラプト(駆逐)されてしまった(もちろん、コンポーネントメーカーとして世界的に活躍している日本勢はいるが、業界全体を取ったほうがリターンははるかに多い)。

 その後、私は研究者の道を歩むことを決め、スタンフォードの東アジア研究部からの奨学金を得て修士を取り、政治経済でもっとも研究のアプローチと日本研究が魅力的なUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)で政治学の博士課程に進んだ。その後、政治経済の専門家としてスタンフォードのアジア太平洋研究所(APARC)のポスドク(博士研究員)という形でスタンフォードに戻ってきた。それからリサーチ・アソシエイト、リサーチ・スカラーという研究職の立場で10年ほどAPARCに在籍し、たまに授業でも教えた。

 日本の情報通信産業や政治経済の分析を英語の学術誌に投稿すると同時に、日本向けにはシリコンバレーについての発信を行うようになった。特にスマートフォンが登場してからシリコンバレーでは世界のいろいろな業界をディスラプトしていく巨大プラットフォームの企業が急成長し、シリコンバレーについてのエコシステムをきちんと分析しないと活用はできないというスタンスで複数のプロジェクトをはじめた。

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