批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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アップルが新しいゴーグル型端末「ビジョン・プロ」を発表した。発売は来年、価格は約50万円だという。
新端末のコンセプトは「空間コンピューティング」と表現されている。仮想空間に入り込むのではなく、周囲の現実自体を拡張してコンピューターの道具にするという意味だ。
実際、新端末はいわゆるVR機器とは異なる。覗き込むと、まずは周囲の現実空間が忠実に再現され、そのうえに仮想空間が重なる。特別の入力装置はなく、視線や指先の動きに映像が反応する。デモ動画を見ると、空中にアイコンが浮かび、それを操作して自由自在に書類や通信画面を呼び出すさまが確認できる。まるでSF映画の一場面のようだ。
価格はたしかに高い。このまま広く普及するものではないだろう。一部では失望が広がったが、試作機を経験した専門家は軒並み完成度の高さに感嘆の声を漏らしている。まずは開発者や好事家に使ってもらい、その後廉価版を開発するつもりだろう。テレワークのありかたやコンテンツ産業を変える画期的な製品なのはまちがいない。
とはいえ、新端末がかつてのiPhone(スマホ)のような社会全体を激変させる「ゲームチェンジャー」になるかといえば、そこまでの期待は時期尚早だろう。スマホはだれもが持ち歩いているが、みなが常にゴーグルをつけている世界は考えにくい。
重さやバッテリーの問題だけではない。視界を完全に覆うゴーグル型端末は、原理的に自分と世界を切り離してしまう。アップルはその点をかなり意識しており、常時装着でも不便が起きないよう工夫を凝らしている。けれども、物理的に近くにいる他人と話すなら、仮想空間内の再現映像と話すのではなく単純にゴーグルを外すのが自然である。新端末の理想が真に実現するためには、現実を肉眼で目視したまま、そのうえに仮想空間を重ねられるような視覚デバイス自体の革新が必要なのではないか。
いずれにせよ来年の発売が楽しみだ。私たちはいよいよ本格的に複数の現実を横断して生きる時代に入りつつある。
◎東浩紀(あずま・ひろき)/1971年、東京都生まれ。批評家・作家。株式会社ゲンロン取締役。東京大学大学院博士課程修了。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。93年に批評家としてデビュー、東京工業大学特任教授、早稲田大学教授など歴任のうえ現職。著書に『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』『観光客の哲学』など多数
※AERA 2023年6月26日号