このほど朝日選書から『戦後70年 保守のアジア観』を出版した。そこで「一冊の本」への執筆を頼まれたのだが、それには「三冊の本」を語らなければならない。何しろ今度の本はオリジナルの『戦後保守のアジア観』と、その改訂版だった『和解とナショナリズム――新版・戦後保守のアジア観』を踏まえた3度目の作品だからである。

 まずは、最初の本のいきさつからご紹介しよう。

「戦後政治がアジアをどう認識してきたか、レポートを書いてもらえませんか」。日米の知的交流の場だった「日米下田会議」を運営していた日本国際交流センターの山本正理事長からそう頼まれたのは、1994年のこと。会議で「アジアの中の日本」をテーマにしたいので、討議ペーパーを作ってほしいという趣旨だった。

 冗談ではない、そんなレポートがあれば、私が読みたいですよ。私はそう答えたのだが、コロンビア大学のジェラルド・カーティス教授にも強く勧められて、ついに蛮勇を振るうはめになった。幸い何とか合格点をいただき、「中央公論」にも掲載してもらえた。

 だが、これに目を付けた朝日選書の渾大防(こんだいぼう)三惠編集長からさらに過酷な注文が舞い込もうとは思ってもみなかった。構想を膨らませ、戦後50年にふさわしい本を作りましょう、という話である。えらいことになったと思ったが、私を駆り立てたのは、節目の年にあって「村山談話」が出る一方で、「アジア解放の戦いだった」などの発言が次々に飛び出す現実だった。アジアを刺激してやまない日本政治の深層を掘り下げてみたい。私は浅学菲才を顧みず、さらに大きな蛮勇を振るって七転八倒。こうして生まれたのが95年11月に発行された第一作だった。

 それから11年。私はこれを書き改めて二冊目を出した。小泉純一郎という破天荒の首相が靖国神社の参拝を6年にわたって続け、日中、日韓の外交を冷え込ませた後のことだ。小泉氏は日朝の打開にも乗り出したが、拉致問題でナショナリズムの高まりを招くなか、首相の座を安倍晋三氏に明け渡したばかりだった。

 実は、小泉首相ほどアジアに対して村山談話と同様の謝罪を繰り返した首相もいない。靖国参拝と謝罪の両立を目指したのだ。そして、小泉氏よりずっと右の体質をもつ安倍氏が靖国参拝を封印し、就任直後に中国と韓国を訪れて外交を修復する。こうした事実に「和解とナショナリズム」の入り組んだ関係を見て、二冊目はそれをそのままタイトルとした。戦後政治が揺れ動いてきたその二面性に焦点を当てたのだ。

 さて、それからまた9年。早々に退陣して失意の中にあった安倍氏が二度目の政権についているのだが、かつて自ら修復した日中、日韓の関係は嵐のなかにある。尖閣諸島や竹島、従軍慰安婦などをめぐり、前の民主党政権で陥った危機ではあるが、安倍氏は靖国参拝の念願を果たすなど、「保守の情念」を発揮して周辺国を刺激し、欧米諸国まで呆れさせた。中国の飛躍的な台頭をはじめとする東アジアの地殻大変動のなか、時代の振子はナショナリズムの高まりへと大きく振れている。折しも迎える戦後70年。そして日韓国交正常化から50年という節目――。この本をもう一度、根本的に書き直したい欲望にかられ、三度目の正直とばかり20年目の挑戦とあいなった。

 というわけで、本書はまず「村山 vs.安倍」の因縁と「岸信介のDNA」から説き起こした。靖国参拝の攻防史や日韓、日中関係のドラマチックな歩みを縦軸で切ったほか、岸首相以来、展開されてきた東南アジアへの積極的アプローチの意味も新たに探ってみた。保守政治が繰り広げてきた権力闘争が、いかにアジア観と絡み合っていたかを鮮明に描こうと思い、分量も最初の本の1.5倍ほどに膨れた。その成果は読者に判断していただくしかない。

 特ダネ根性も抜けず、知られていない事実の掘り起こしを心掛けた。例えば1972年の日中国交正常化に際し、田中角栄首相と周恩来首相がともに尖閣諸島の周辺で「石油共同開発」を考えていた事実。官房長官として首脳会談に同席した二階堂進氏の証言が気になり、さまざまな資料をあたって二人の思いを浮き彫りにし、「伏せられた首脳の会話」を推理してみた。あるいは、伊藤博文を殺した安重根を敢えて称えた元警視総監の国会質問も見つけ、保守の懐の深さを示すエピソードとして再現した。

 顧みればこの間、幾多の文献をはじめ、多くの人の世話になった。なかでも私に思いがけない宿題を課した山本正さんと渾大防三惠さんは、ともにいまや帰らぬ人である。二人の過酷な注文がなければ、今度の著作もありえなかった。改めて深く感謝し、ご冥福を祈りたい。