「書いてみて気づいたんですが、あの家は父親のマニフェストでした。こんな理不尽はぜったい認めないぞという抗議の象徴だったんでしょうね」
『愛媛県新居浜市上原一丁目三番地』(講談社 2090円・税込み)は鴻上尚史さんの六十数年間にわたる「居場所」の履歴書だ。カバーには取り壊された愛媛県の実家の絵が使われている。
父母ともに小学校の教師だった。父は日教組の組合員ゆえ「片道二時間半」の山奥に転勤させられるなど、定年まで不本意な待遇を強いられた。自由や人権を重んじる一方、どの新聞を購読するかは夫が決めるものだと譲らない。昭和の男の矛盾を詳細かつコミカルに描いている。
「父親を見ていると、思想って一体何だろうかと思いますよ」
鴻上さんは社会に充満する「同調圧力」を問い続けてきたが、子供のころ父の背中を通して感じた違和感が根底にある。
半世紀前に父が建てた「自慢の緑の家」は田園風景の中で浮きたつモダンな建物だった。ただ、大雨の時は雨漏りし、緑色を好む鳥たちが雨樋から戸袋まで巣を作った。珍事に困惑する主人公の目線がシリアスになりがちな話を軽快にしている。
「2年続きで両親を見送った際、押し寄せる記憶の数々をどうしたらいいのか、これは書くしかないと思ったのが発端です」
表題作は文芸誌「群像」に掲載されたが、どこに発表するか予定もないまま、3カ月ほど他の仕事を入れずに書き上げた。
強く印象に残るのは父の葬儀の打ち合わせの場面だ。黒いスーツの男性から祭壇、棺、線香、ローソクなど一つずつ説明され「値段と数」を決めるよう促される。抑制された筆致から「親を亡くしたばかりなのに」という不条理さがにじみ出る。
記者が自分の父の葬儀のことを思い浮かべたと伝えると、鴻上さんはしばらく「うんうん」「なるほど」と耳を傾けてくれた。聞き上手な人だ。近年「人生相談」が好評なのもうなずける。
「葬儀屋さん個人は善意の人で、儲けてやろうという意識は感じられない。だからこそ、儀式をすべて金銭に換算するシステムに対して、内心は心臓が脈打っていたんじゃないかと思いました」
表題作に続く「東京都新宿区早稲田鶴巻町大隈講堂裏」は、大学時代に劇団を設立した青春譜であるとともに、ある後輩の弔いの物語だ。最後の掌編では、63歳でひとり暮らしを始めた「いま」が綴られる。
「“自伝小説”と編集者さんが帯に書いてくれましたけど、どこまでがホントで、どこからが嘘なの?と口さがない友人はよく聞いてきます。『小説だよ』と言って終わりにしているんですけどね」
実際は「ほぼ事実」という。掌編では、実家で母が使っていた冷蔵庫や父の机を転居先にクレーンで運び入れる場面がそうだ。引っ越し業者から「買い換えた方が賢い」と言われたが押し通した。
「ときに理にかなわない人生の断片を書き残しておきたかったんです」
(朝山実)
※週刊朝日 2023年5月26日号