対談や連載など週刊朝日はノーベル賞作家の大江健三郎さんと深いご縁をいただいた。担当だった山本朋史元編集委員が大江さんの優しさを記憶に刻んでいた。
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「編集者に厳しく怖い」。そんな伝説めいた大江評がなぜか本誌編集部に語り継がれていて近寄りがたい存在と目されていた。代表作をいくつか読んだだけで大江文学についてほとんど知らない事件記者だったぼくに1994年にノーベル文学賞受賞の記事を作れと指示が下った。困り果てて作家丸谷才一さんに泣きつき寄稿していただくことで救われた。徒手空拳で向かう相手ではない。受賞直後に単独インタビューなど、とても無理だった。
でも、大江さんに本誌に登場願いたい。ない知恵をしぼり、作家井上ひさしさんと20世紀末を振り返る対談をお願いしたのはたしか1998年の暮れのことだった。
「井上さんとだったらいいですよ」
快諾をいただき朝日新聞東京本社で行った対談は当初は3時間ほどで終わる予定だったが、お二人とも準備したものを語り尽くせず場所を変えて深夜に及んだ。
この対談は1999年新年号から2回にわたって掲載された。
お礼の手紙を出すと丁寧な返事をいただき、何度かやり取りが続いた。葉書や便箋に大江さん独特の角張った文字でびっしり書かれていた。当時の編集長から、
「大江さんに何か目玉になるような連載をやってもらえないか」
なかなか直接は口に出せないでいた。ある時、大江さんのほうから、
「子どもにもわかる童話のようなエッセイなら書いてもいいな」
と。願ってもない話だった。
なぜ学校に行かないといけないの?といった子どもの疑問に答えるエッセイの構想だった。最初の原稿を見せていただいた。簡単だが全体像を伝えるレジュメもできあがっていた。大江さんの故郷、愛媛県内子町で子ども時代に体験した話などを盛り込むという話も魅力的だった。
挿絵をどうするか。相談すると妻ゆかりさんが描いた絵を見せてくださった。繊細で詩的なタッチの完成度に驚いたものだ。タイトルは『「自分の木」の下で』。この時すでに大江さんの頭の中ではすべてができあがっていたのだと思う。担当記者のぼくのやることといえば、毎週月曜日に世田谷区の自宅に原稿を取りに行くこと。文学オンチのぼくでも楽勝、と思ったのは束の間。実はそんなに簡単ではなかった。