2014年7月1日、安倍内閣は、集団的自衛権の行使に関わる閣議決定を行った。この7.1閣議決定の成立には、「平和」を党の基本理念とする公明党が、連立与党として深くかかわっている。では、7.1閣議決定とはどのような内容であり、また、公明党はどのような影響を及ぼしたのだろうか。これが本書のテーマである。

 世間の報道の印象とは異なり、7.1閣議決定は、理論的にはほとんど無意味な文書である。この決定の主内容は、日本国憲法の下でも、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合には、集団的自衛権を行使できる、との解釈を示したものである。要するに、個別的自衛権の行使(日本の存立を脅かす明白な危険に対処するための武力行使)として説明できる場合に限り、集団的自衛権を行使できる、と言っているにすぎない。「個別的自衛権行使は合憲、集団的自衛権行使は違憲」というのが従来からの政府解釈であるのだから、今回の閣議決定には、「重なる部分については合憲であることを確認した」という程度の意味しかない。

 それにもかかわらず、なぜ多くのメディアが、「これまで禁じられていた集団的自衛権の行使を容認した」と報じたのかといえば、議論の勢いや雰囲気だけで、判断してしまったからだろう。本来なら、行使反対派は、7.1閣議決定を「これまでの枠を守った」と評価し、行使容認派は「これでは全然足りない」と批判すべきところだが、実際はそうはなっていない。むしろ、反対派が決定を批判し、容認派がこれを称賛する、という状況になっている。

 こうした混乱状況を踏まえ、佐藤氏は、決定文の内容そのものの冷静な分析が必要だと主張する。そして、「本気で集団的自衛権を使えるものにしようとしていた人たちは……無力感にとらわれているのではないだろうか」と鋭く指摘する(32頁)。

 周知の通り、安倍首相はこの件にかなりのこだわりを持ち、「左派・市民派の批判も、リベラルな保守の批判も、論理的な言説は……安倍首相にはすべて届かなかった」(173頁)。それにもかかわらず、公明党の平和の理念が、首相のこだわりへのきり込みに成功したのはなぜだろうか。

 佐藤氏は、次のように主張する。公明党の平和主義は、抽象的なお題目ではなく、「経験」に裏付けられた具体的なものだった。それゆえに、安倍首相の強固な信念にも対抗できたのだと。

 そして、本書の各章は、この主張を丁寧に裏付けていく。まず、戦前・戦中の黎明期から、戦後の池田大作氏の思想と行動に至る創価学会の歴史を分析し(第2章から第3章)、「池田氏の平和への思いは本物だ」と述べる(88頁)。そして、公明党との関係や、創価学会インタナショナルの実践などを紹介して、創価学会の平和主義が、どのような意味を持っているかを論じる(第4章、第5章)。

 ところで本書は、創価学会の理念を知るのみではなく、戦前・戦中の宗教弾圧の苛烈さを理解するのにも有益だ。創価学会の源流である日蓮は、鎌倉政権の弾圧を受けた。創価学会の指導者は、戦中、治安維持法の適用を受け、獄につながれた。池田大作氏も、大阪事件で刑事責任の追及を受けた。こうした国家権力の厳しい弾圧の中にあっても、彼らは信仰を貫き通した。佐藤氏の恩師のキリスト教徒は、創価学会の指導者たちの戦時下の抵抗について、「われわれキリスト教徒は実にだらしがなかった。この点で創価教育学会から虚心坦懐に学ばなくてはならないことがたくさんある」と語ったという(178頁)。

 こうした「体験」があるからこそ、創価学会は、「国家が何か策動しているときに、一歩引いて状況を観察し」、「国家権力の論理とは別の価値観で動」くことができる。佐藤氏は、「これは決して失ってほしくない価値観である」という(140頁)。

 佐藤氏は、しばしば、「国家の本質は悪だ」と強調する。こうした国家への警戒は、単に憲法の教科書を読んで、「権力は暴走する」とか、「立憲主義が大事だ」といった論理を抽象的に学ぶだけでは身につかない。かといって、ほとんどの国民は、そのような弾圧の「経験」を持っているわけではない。もちろん、そんな経験を一般国民が持っていないというのは、日本がそれなりに良い国であることの証であり、喜ばしくはある。しかし、国家への警戒心を失えば、国家はいつ国民に牙をむくかはわからない。とすれば、権力の弾圧と戦った人の「経験」を読み、想像力を働かせておくことが必要だ。

 本書の生き生きとした記述は、われわれに国家というものと向き合うために必要な想像力を与えてくれる。