■第6章アイ・クッドゥヴ・ハッド・ジョーンより
フォーク・ミュージックが、ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで俄かに人気を呼ぶと、バーやコーヒーハウスの経営者はすぐさま、それを集客手段と見なした。
ジャズと馴染み深い名門クラブ、マックス・ゴードンの「ヴィレッジ・ヴァンガード」は、ピーター・ポール&マリーをはじめとするフォーク・ミュージシャンを出演させ、ブームの恩恵を受けた。
1957年にヴィレッジのイタリア料理店「ガーズ」を買収したマイク・ポーコは、その2、3年後にイジー・ヤングとトム・プレンダーガストから、彼に代わりフォーク・ミュージックをブッキングするという話を持ちかけられた。そして「ガーズ」を、「フィフス・ペグ」と改名した。だがポーコが、ヤングやプレンダーガストと衝突し、その後は、「ガーズ・フォーク・シティ」として営業を続けた。
ポーコは、ボブ・シェルトンに紹介されたポール・ロスチャイルド(その後エレクトラ・レコードのプロデューサーとなる)から、毎週月曜の夜にフーテナニーを開催してはどうかと勧められた。フーテナニーの開催が大成功を収めた結果、フォーク・ミュージックは、「フォーク・シティ」に定着した。フーテナニーは1960年代の初期、フレッド・ウェイントローブの「ビター・エンド」やクラレンス・フッドの「ガスライト」で、月曜以外の夜にも催された。
他の都市でも同じような現象があった。ケンブリッジの「クラブ47」もまた、1958年初期に開業した当初から、ジャズを提供していた。経営陣は、フォーク・ミュージックの導入に踏み切れなかったが、1959年にようやく、ボストン大学の1年生ジョーン・バエズの友人に、一晩クラブを貸すことで合意した。バエズはそうして、彼らに力量を知らしめた。
シカゴでは、「ゲイト・オブ・ホーン」をオープンしていたアルバート・グロスマン(のちにボブ・ディラン、ザ・バンド、ジャニス・ジョプリンのマネージャーを務める)が、オデッタやボブ・ギブソンといったシンガーをブッキングし、彼らのマネージメントも行なった。また、オールド・タウン・スクール・オブ・フォーク・ミュージックは、主婦や未来のロック・スターにギター・コードを教え、ビッグ・ビル・ブルーンジーやウィン・ストラックによるコンサートを開いていた。
ニューヨークには、新進気鋭のフォーク・ミュージシャンがレコーディングを行なうチャンスも場も依然としてあったが、北東部や中西部の主要な都市の大半では、パフォーマーが、オープン・マイクとフーテナニーによって、歌や演奏の技量を磨いた。
1950年代に、シカゴ、スワースモア、オバーリンといった大学のキャンパスで開かれるようになったフォーク・フェスティヴァルは、60年代に入ってもなお活気にあふれ、多くの学生にフォーク・ミュージックを伝えた。だが、59年から60年代の後半にかけては、ニューポート・フォーク・フェスティヴァルが、国民的な一大イヴェントとなった。
ニューポートは、1954年からジャズ・フェスティヴァルを開催していた。その主催者ジョージ・ウェインが5年後に、ジャズ・フェスティヴァルに続いて週末にフォーク・ミュージックのステージを加えようと考えた。フォーク・ミュージックはすでに、ボストン交響楽団がレジデント・オーケストラを務めるタングルウッド音楽祭や、シカゴ交響楽団によるラヴィニア音楽祭など、他の野外コンサートの舞台で、観客を惹きつけていた。
ニューポートの最初の夏のプログラムは、キングストン・トリオから、ゴスペル・クワイアーやナイジェリアのドラム&ダンスのパフォーマンスに至るまで、多岐にわたった。出演者には、エレクトラでもっとも成功を収めたレコーディング・スター、セオドア・バイケル、コソイ・シスターズ、ニュー・ロスト・シティ・ランブラーズも、含まれた。そして、ボブ・ギブソンが初めて、ジョーン・バエズをニューポートの大観衆に紹介した。[次回10/20(月)更新予定]