その結果、急転直下、僕の思い通りに事は進行していった。足場を組んだまま、その足場を凍結して、一気にこのパビリオンは未完のまま、実現にいたった。当時はいろんなところから「せんい館」は建築途上で予算がなくなって途中放置されたとか、「横尾にだまされたのだ」とか、さまざまな批判が集中したが、その後、美術界でプロセスアートがちょっとしたブームになり、万博の前年に出品したパリ青年ビエンナーレで、僕は完成作を否定した、そこに至るプロセスを3点の作品に分解して提示した未完作品によってグランプリを受けることになったが、せんい館の未完のプロセスをそのままコンセプトにした作品であった。

 万博の話はこの辺で、せんい館で完成を見た未完について考えてみたい。人間は未完のまま生まれて、完成を目指して生きようとするが、なかなか完成はしない。そして、ついに未完のまま人生を終わる。未完で生まれて未完で生きて、未完で死ぬ。これでいいのではないか。それでも完成したいと思うなら、もう一度転生する。今度こそ完成して死にたいと思う魂は、そうなるかも知れない。

 絵の場合も、完成を目前にしながら、最後の一歩が踏み出せず、とうとう完成を放棄して未完で終わってしまったなんて、しょっちゅうである。だったら未完のまま、提示しちゃえばいいというのが僕の開き直った創作行為である。完成した作品には鑑賞者はそれほど魅力を感じないのではないか。未完作品の前に立つ鑑賞者は、提示されている未完の延長に想像力を働かせる。作者がギブアップしてしまったその地点に立って、無意識に、その先を描こうとするはずである。

 そういう意味で完成されたものはそんなに面白くない。ダビンチの「モナリザ」だってピカソの「ゲルニカ」だって未完である。ダビンチは旅をしながら馬車に「モナリザ」を積んで行き先で筆を入れていたようである。「モナリザ」が怪しい魅力を発揮するのは、なぜだと思います。僕は未完のままでちゃんと描かれていない「モナリザ」のマユゲだと思う。あの怪しさは描かれていないマユゲのせいであると僕は思う。もしマユゲを描いてしまうと、多分モナリザの神秘はなくなると思う。あの作品が名作なのは、未完だからである。

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