春闌の田園。ニュアンスに富む路地裏。在りし日の東京の姿を映像より鮮やかに、風の息までを伝える言葉の力! 岩本素白(本名堅一、1883―1961)の初の評伝が本書である。著者はここでその生涯をたどり、“具眼の”人々の素白観を紹介する。広くは知られざる、実は大変な文人の存在を教えてくれる。
長く早稲田大学で国文学を講じた素白の名は、学問の世界では不動だろう。『日本文学の写実精神』ほか清少納言から芭蕉に至る随筆文学の系譜をめぐる考察はのちの研究に寄与した。だが文章家としての知名度はどうか。
親友窪田空穂創刊の歌誌「槻の木」などに戦前から随想を寄せている。しかし含羞の人素白は自ら望んで、発表をいわば身内の読者を想定した場に限定した。
「槻の木」編集者の立場で著者は素白の戦後と伴走した。東京の変貌を目の当たりに、生地品川ほか思い出の地を歩き回り昔日の面影を刻印した素白の凛とした文体、人柄に出会い敬愛した。万感の思いをこめてだろう盛んな原文引用がうれしい。
※週刊朝日 2014年6月20日号