ずいぶん生きづらい時代になってきた、と思う。
私は高度成長期に生まれ、大学を卒業したときはバブル直後。就職が楽な時代だった。世界中で日本のビジネスマンが活躍し、日本の国際的な地位も高かった。ジャパン・マネーが世界を席巻していた時代だ。世界のどの主要都市のホテルに泊まっても、日本語のテレビ・チャンネルが複数あった。
ところが今はどうだ。
アベノミクスで景気が上向いてきたとはいえ、大学卒業生の就職事情はいまだに厳しい。海外のホテルでは、NHKの国際放送ですら見られないところも多い。中国語、アラビア語、ロシア語の番組ばかりだ。
今の20代の人の話を聞くと、「生まれてから一度も、景気がいい時代になったことがない」と言う人もいる。若者が、明るい希望を持てない時代になっている。
若者どころか、大人ですらほとんどの人が、これからの人生に不安を持っているのではなかろうか。
今の世の中は、幸せな世界なのだろうか。
ところで、私は東京で小学校受験のための幼児教室を経営している。いわゆる「お受験」塾だ。
予測不能で不連続な変化が起こる、この21世紀に、一生懸命子育てをしているお父さん・お母さんたちに日々お目にかかり、相談を受けている。
そういうご両親たちに、「お子さんに将来どのような人になってほしいですか」と聞くと、多くの場合、共通した答えが返ってくる。
表現の違いはあるが、要は、「どんな時代になっても対応できる柔軟性と、簡単に折れない心の強さを持った人になってほしい」という答えだ。
おそらく、自分自身に言い聞かせている部分もあるのだろう。先々、どうなるかわからない。だから、子どもには何があっても元気にサバイバルしてほしい。そういう切なる親の願いなのだ。
こういう保護者の話を聞いていつも思い出すのは、福澤諭吉のことだ。慶應義塾を創設した福澤諭吉こそが、柔軟性と強い心を持った人物にほかならないからだ。
『福翁自伝』という福澤諭吉の自伝を読むとわかるが、彼は下級武士の家に生まれ、決して学問をするのに恵まれた環境にはなかった。にもかかわらず、持ち前の好奇心と向上心で蘭学を究めていく。
私が好きなエピソードは、その後の展開だ。あるとき、横浜を訪れた福澤諭吉は、書いてある言葉や外国人が話す言葉が理解できないことに気づく。蘭学の達人である自分がわからないのだ。そこで初めて、国際社会で使われる外国語が、オランダ語から英語に変わったことを知る。
今まで人生をかけて勉強してきた蘭学が、すでに役に立たない。ショックで諭吉は落ち込む。しかし、すごいのは、その「へこみ」は一晩だけで、翌日には心新たに英語を勉強しようと燃えるのだ。多くの蘭学者が、新たに外国語を習得し直すことに躊躇する中、諭吉だけが持ち前の心の強さ、前向きさを発揮し、英語を習得していく。
私のように慶應出身でなく、慶應とは縁もゆかりもなかった人でも、福澤諭吉のエピソードには勇気づけられる。
子どもをもつ親として、もし、我が子に、福澤諭吉の100分の1でもいいから、彼のへこたれない前向きな気持ちと時代に対応する柔軟性が身につくのであれば、慶應義塾の小学校に入れたいと思うのは自然なことだろう。
司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』にも登場する秋山好古は、自分の子どもはもちろん、親戚の子どもの多くも幼稚舎で学ばせた。小説の中でも、正岡子規が「この世の中で……だれがいちばんえらいとお思いぞな」と尋ねると、「あしは会うたことがないが、いまの世間では福沢諭吉というひとがいちばんえらい」(『坂の上の雲』第1巻・文春文庫159頁)と答えている。
しかし、現在の慶應幼稚舎が「次なる福澤諭吉養成所」になっていないのは、周知の事実だ。「社中協力」の恩恵で一流企業に就職するところまでは順調なのだが、一流企業の仕事のレベルについていけず、小学校時代を懐かしむことが人生の楽しみになっているような方も散見する。
しかし、慶應義塾はそういう残念な現状にへこたれずに、次の矢を放った。それが「慶應義塾横浜初等部」という新しい小学校だ。2013年春の開校直後から大変な人気で、初回入試から慶應幼稚舎の志願者倍率を上回った。この新しい小学校は慶應幼稚舎とはまったく異質の学校だ。
どのような教育を実践しているのか。本書で本邦初公開する。