年初から、インド東北部の、ナガランドとマニプル州を旅している。この地域は、ミャンマーと国境を接する険しい山岳地帯だ。ここには、いわゆるインド人とは異なり、モンゴロイド系で日本人に顔つきが似たナガという部族が暮らしている。つい百年ほど前まで、山間のジャングルに裸同然で生活しており、その頃やってきたアメリカ人宣教師によってキリスト教化されるまで、部族同士で首狩りを行ってもいたそうだ。またここは、第二次世界大戦中にインパール作戦で日本軍が壊滅した地でもある。戦後はインドからの独立闘争が続き治安が悪く、入境が制限されていた。しかし、数年前に情勢が落ち着いて域内の個人旅行が可能になったところで、昨年末にナガランドの隣の州に住むガロ族の友人の結婚式に招かれたので、訪ねてみた。
ナガランドの州都コヒマは、尾根伝いに広がる静かな地方都市だった。小さな商店が軒を連ね、昼間は道が中古車で渋滞するが、日が暮れると町は静まり帰る。住宅の庭から家畜の鳴き声も聞こえて、のんびりした山村の趣だ。
町の中心部にギャリソン・ヒルがあるが、ここは、1944年に日本軍とイギリス軍が大激戦を交わしたところだ。今はその時の戦闘など想像もつかない、静かな連合軍の霊園となっていた。そして、そこから20分ほど歩いた南の丘には、町を見渡すように立派なカテドラルが立っている。戦没者の冥福を祈る場として、日・英の元兵士やその家族の寄付によって建設されたもので、奉納趣意を記した石碑が裏門にあった。その碑に書かれた日本語を読んだとき、私はようやく、日本兵が本当にこのような言葉も通じない遥か異国の山奥までやって来て、戦った果てに命を落としたのだと実感した。しかし、これ以外に、町の中に主だった戦跡はない。
何よりも感心したのは、ナガの人々の親切さだ。また、路上駐車をする際、鍵をかけなくてもよいほど安全なことにも驚いた。ここに至るまでに出会った他地域のインド人から、「ナガランドは危ないぞ、独立を目指す過激派が潜んでいて何をするかわからないからな」、とか、「首狩りしていた未開人で今でも野蛮だぞ」と脅されてきたが、その噂の方が無責任だと感じるほどだった。地元の人たちにあわせて日中行動しながら、ひとりで街の散策を楽しめた。
マニプル州の州都インパールは、コヒマから、乾期のこの季節特有の土煙の舞い上がる山道をバスで5時間南へ下ったところにあった。雨期の地滑りで道が剥げたままで、でこぼこが絶えない大変な悪路だ。町に近くなると道が山を下り、渓谷の川に沿うように走り、セングマイという村を通過した。1944年に、目標のインパールを目の前にしながら、弾薬・食糧の補給のない日本軍が大敗を喫し、多大な死者を出して撤退を余儀なくされた丘が見えた。あの丘には、戦死した日本兵が打ち捨てられ、また、飢えや疫病に苦しみながら死にもの狂いで逃げ帰る途中に倒れた兵士の屍が街道のように続いていたと聞かされた。しかし、車窓には日本の山村かと見間違えるほどのどかな田園風景が広がり、菜の花も咲いている。あまりのうららかさに拍子抜けしながら、インパールに辿り着いた。
静かなコヒマと異なり、インパールはばたばたと騒がしい。道も広く、トラック・乗用車、・三輪バイクタクシー・リヤカーなどが、メイン・ロードを一斉に走っている。南には大市場が広がり、生鮮食品からおこしのような米菓子、衣類、竹で作った籠、電化製品まで、ありとあらゆるものが売られている。その様子は、インドというより東南アジアに近い。気になったのは、辻ごとにライフルを持った軍人や警官が立っていて、大きな軍用車やタンクをしばしば見かけることだ。反政府勢力が時々暴れるので、警備しているのだそうだ。ガロ族の友人だけでなくナガランドで知り合ったひとたちにまで、インパールは十分気を付けるよう警告された訳がわかった。それでも、地元の人々の生活に合わせて日中観光する分には、ひとりで歩いてもまったく問題はなかった。
ここにも、戦没者の墓地があった。イギリス軍とインド軍のものだった。そしてミャンマーとの国境に向かって20キロほど行ったロトパチン村には、村人が日本兵のために建ててくれた慰霊碑があった。南方からインパールを目指した日本軍が壊滅し、戦死した兵士たちの血で赤く染まったためレッド・ヒルといわれる丘の前である。この日本語の碑を見たとき、私は、どうしようもない悲しみの気持ちで胸が一杯になってしまい、涙がこぼれてとまらなくなってしまった。
実は私は、ナガ族の中でもロンメイという部族の祭があると聞き、インパールを訪れた。たまたまコヒマからのバスで隣り合わせた女性が、ロンメイ・ナガ族の若いお母さんで、私の話を聞くや「それなら家に来なさい!」と招いてくれたため、そのまま数日間彼女の実家でお世話になった。そこで私は大変な歓待を受けた。決して裕福ではない家族が、私のために居間に寝床を作り、朝・昼・晩と食事を一緒にして、祭に行くときは、私にロンメイ・ナガ族の伝統衣装を着させてくれた。その恰好で祭に連れていかれると、近所の人たちがニコニコと寄ってきて、「どこから来た? 東京か! 一人か? うちでお茶を飲んでいかないか?」と招かれた。お茶していると、世話になっている家族から「ヤスコ、今どこにいる?」と安全確認の電話が入り、帰りはお茶をごちそうしてくれた家のひとたちが送りとどけてくれた。その上、水やお菓子にはじまり薬にいたるまで、「あなたは私たちのお客様だから」と言って、彼らより経済的に豊かなはずの出会ったばかりの旅人の私に、一銭たりとも負担させなかった。
兵士として派遣され、あたら若い命を散らした70年前の日本人と、旅行者としてこの地を訪れ、食べ切れないほどのご馳走でもてなされる今の私と、同じ日本人でも何という違いであろう。
地元のひとたちと言葉を交わすと、「どこから来た? ああ、日本人か。戦争中、日本兵はうちの村にも来たよ、刀や軍服が残っている」「戦後、日本兵の鉄兜を鍋にして使っていたよ」などと言われた。当時をご存じのご年配方は、日本兵は礼儀正しく士気が高く、一度決めたことは必ずやり遂げ、決して村の女性たちに手を出さなかったとおっしゃった。しかしまた、お互い言葉が通じなかったので、実は日本兵の気持ちや考えが分からなかったとももらされた。あるとき突然やってきたかと思うと、いつしか飢えて村の食べ物を漁り出し、ついには撃破されてあっけなく去っていってしまった日本兵と、人間的なつきあいが生じる間もなかったことを、残念に思われているご様子だった。
今、私が無事にこの地を旅して、現地のひとたちが親しく接してくれるのも、無念にもここに埋もれた日本兵たちの存在があったからだろう。今は、彼らの願った共存と繁栄を、会話や協同を通して実現できる時代だ。二度と戦争を起こさず、お互いの思うところをやりとりしながら、世界のひとたちと穏やかに生きていけるよう努力したい。首狩りをやめたナガのひとたちと出会い、戦跡を訪ねて、碑の前でそう強く思った。