『アナザー・セルフ・ポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集):デラックス・エディション』
『アナザー・セルフ・ポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集):デラックス・エディション』
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『新月』新●月
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 ついこの間、お台場のZepp DiverCityで、ディランを観たと思ったら、また、やってくるという。もっとも、ついこの間と言っても、4年ぶりというから、オリンピック並みというところだろうか。
 わたしの表現力の問題で誤解されるとまずいので、補足しておくが、これは、感嘆しているのだ。ディランの活発な活動的な生き方に、驚いているのだ。

 わたしが、はじめて知ったころのディランは、ほとんど隠遁状態だった。
 1966年の夏、最初の絶頂期を迎えていたボブ・ディランは、ニューヨーク州ウッドストックの近くでバイク事故を起こし、重症となり、その後、隠遁する。アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を出した後のできごとだ。
 今になれば、この時期に、のちにザ・バンドとなるメンバーたちと、デモテープを作成したりと、音楽活動を続けていたことがわかるが、ライヴ活動は、ほとんどなかった。
 66年発表のアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』の次に67年『ジョン・ウェズリー・ハーディング』、69年には『ナッシュビル・スカイライン』を発表するが、ツアーなどは、行われていない。
 人前で歌った記録を探ってみると、66年5月のロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのライヴのあと、68年1月カーネギーホールで開催されたウディー・ガスリー・トリビュート・コンサートへの出演で数曲歌っている。69年の7月にザ・バンドのライヴにサプライズ・ゲストとして登場し、数曲歌ったとあるが、音源は正式に発表はされていない。

 そして、次に行われたコンサートが、69年のワイト島フェスティバルでのザ・バンドを従えての1日のみのライヴである。
 このライヴは、70年発表の『セルフ・ポートレイト』に、4曲だけ発表されていた。

 そして、次にわたしの前にボブ・ディランが現れるのは、71年のジョージ・ハリソンが開催したバングラデシュ・コンサートだ。このライヴは、レコードにもなり、映画も作られたので、ここで、わたしは、生まれてはじめて、動くボブ・ディランを観たのだった。今年2013年になって、『アナザー・セルフ・ポートレイト(ブートレッグ・シリーズ第10集):デラックス・エディション』が発表された。この4枚組みの中の1枚が、69年の『ワイト島フェスティバル』の完全版だ。

 正直に言ってしまうが、新しいバンドやミュージシャンの新譜を聴くのがいやだとは言わないが、長年、聴きまくってきた往年のミュージシャンの未発表曲やライヴ音源を、いい音で聴けるのは、とっても、うれしくって、楽しいことなのだ。
 つまり、このころに出来上がってしまった、わたしにとってのボブ・ディランは、なかなかライヴをやらない、孤高の人のイメージになってしまったのだ。
 だから、78年に初の来日公演があると聞いたときは、ときめいたものだ。ディランにとっても、12年ぶりのワールド・ツアーだった。
 このとき、わたしは、まだ大学生だった。
 ボブ・ディランを聴いていたといっても、すべてのアルバムを聴いていたわけではない。ここに、ある人物が現れる。日本のプログレッシブ・ロック・バンド新月のボーカル、北山真だ。
 北山は、ボブ・ディランの来日に向けて、すべてのコンサート東京8回、大阪3回に行くことを決意し、わたしにも、チケットを用意してくれた。貧乏学生のわたしは、それでも、2回、行ったように思う。ここまで書いて、話が長くなりそうなので、次回に続く。[次回12/30(月)更新予定]

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