高碕達之助という男に興味を持ったのは、4、5年前、「朝日新聞」夕刊の連載「検証・昭和報道」のチームに入って、昭和史を学び直していたときだった。
メインではない出来事をやってみようと、太平洋戦争中の「大東亜会議」(1943年)を取り上げたあと、アジア・アフリカ会議(バンドン会議、1955年)に取り組んだ。バンドン会議は、むかし高校の世界史で習ったきりだが、なんだか面白そうに思えた。だが、日本政府代表の高碕については、よく知らなかった。
資料を読むと、周恩来と高碕が会談し、その通訳をした人が存命のようだ。さっそく会いに行った。
東京・港区のマンションに岡田晃さんはお住まいだった。香港総領事やスイス大使を歴任された元外交官の岡田さんは、戦前、東亜同文書院、東北大学を卒業して外務省に入った。1955年当時、外務省中国課の課員でまだ30代。バンドン会議代表になった高碕が、外務省に中国語の通訳を要求、岡田さんが行くことになった。会議は英語が公用語だから、中国語通訳は必要ない。しかも日本は中華民国(台湾)と国交を結んでいたが、台湾は招待されず、大陸の中華人民共和国(中国)が参加する。外務省は国交のない共産主義の中国とは接近したがらなかった。高碕はひそかに中国側と接触するつもりだった。
「だからぼくは、かわいそうな立場だった」と岡田さん。バンドンに同行した上司の外務省幹部は「野武士的」な高碕を見張る役だった。何しろ、高碕は半年前に経済審議庁長官に就任するまではずっと経済界にいた人で、外務省にとっては「異邦人」だ。外交で余計なことをしてもらっては困る、というのが、本音だった。
高碕は偶然を装って会議の開幕直前に周と会い、短時間の会談をした。戦後はじめての公式な日中接触だった。周の通訳で東京生まれの廖承志(りようりようし)は、岡田さんとは戦前からの知り合いで、高碕、周の意向を受けて、ふたりがアレンジしたのだ。
数日後、周恩来の宿舎で秘密会談をした。秘密会談のくわしい内容は長年、知られていなかったが、岡田さんは外務省退官後、『水鳥外交秘話』を著し、披露した。わたしは改めて岡田さんの口から、当時の様子を聞いた。
高碕が、大陸の中国と台湾が「一本になる」ことを望んでいる、と語ると、場が一気に緊張した。白皙の周のこめかみがぴくっと動き、横に控える陳毅外相にひとことふたこと小声で話したあと、この問題で改めて会談したい、と高碕に持ちかけたあたりは、臨場感に満ちていた。周は、台湾問題で日本政府の新しい提案でもあるのか、とみたのだろう。岡田さんから報告を受けた外務省の「見張り役」は、「台湾問題なんか、話さなくていい」と激怒し、再会談は実現しなかった。
外務官僚を尻目に、高碕は独自に人間関係を築いてゆく。バンドンでエジプトのナセル首相と意気投合、これが日本とアラブ関係の出発点になった。周との会談が、国交のない日中間で、日中交渉の窓口になったLT貿易につながり、のちの国交回復の道筋をつけた。
がぜん、この人物に興味がわいた。調べていくと、高碕は破格の男だった。中国とのLT貿易で知られるが、それだけではない。日本の近代史を体現する人物、世界的なスケールの男だった。こんな日本人がいたのか。
若いころのアメリカ・メキシコ渡航(明治)、帰国後の缶詰製缶会社の創業(大正)、さらに満州での産業経営(戦前昭和)、敗戦後の混乱する旧満州で、日本人の会長として、ソ連軍、国民政府軍、共産党軍とつぎつぎに代わる支配者と命がけで交渉。帰国後は電源開発総裁を務め(戦後昭和)、政治家になると、北海道のコンブ零細漁民の安全操業に尽力、フルシチョフ・ソ連首相と渡り合った。フーバー米大統領とも知り合いだった。
何より傑作なのは、桁外れの動物好きで、とくにワニが大好きだったことだ。自宅に子ワニを飼育して、来客を驚かした。そこで私は伊豆・熱川のバナナワニ園にワニを見に行った。池の周りに、こげ茶色のでかいワニが寝そべっている。全く動かない。半眼の眼は何を見ていることやら。とても好感がもてない動物だった。記録を見せてもらうと、高碕はここに何度もやってきて、子ワニのシッポを持ってぶら下げ、喜んでいたという。
先日、久しぶりに岡田さん宅に電話した。家族の方によると、1、2年前、中国のテレビやNHKがインタビューに来たという。主にバンドンでの周と高碕の会談の取材だった。岡田さんは95歳になって耳がさらに遠くなったが、お元気で、毎朝2時間、新聞をじっくり読むのが日課という。