



――いちばん古いカメラの記憶は何ですか。
最初に触ったのは、家にあったフジペットです。子供でも操作できるように、「1」「2」と数字のついたレバーが左右についていた。それで近所の犬を撮ったりしました。ぼくはいわゆるカメラ少年ではなくて、機械いじりには興味がなかった。いまもそうだけど、カメラはあくまでも記録用の道具なんです。写真で何かを表現したり、アートをやろうという気もさらさらない。カメラに対して過度の思い入れはなく、「画像でメモをとっている」感覚ですね。
――いまお使いの機種は。
EOS5D MarkIIです。EOSは初期の機種からずっと使っているんです。というのも、取材旅行の際、キヤノンが最新機種を提供してくれたいい時代があったんですね(笑)。よほどのことでもない限り、失敗しないので助かります。ぼくのようにメカに弱い人間も、そこそこのものが撮れる。だいたい、意識しないで撮った写真のほうが、あとで見たとき、「これ、いいじゃない」と思えるんですよね。
――撮影時のこだわりは。
特別なことはしていません。ただ、無意識のうちに構図は調整してるんでしょうね。昔からの友人は、「戸井は写真はシロウトだけど、レイアウトはできてる」と言います。絵描き志望で美大出身なので、フレームの中が安定していないと落ち着かない。あと、人物を撮るときは極力ズームを使わない。途上国の、治安の悪い場所に行くことも多いので、ヤバい写真を撮るのに便利かなと望遠レンズも買ったんですが、人の顔はやっぱり正面から撮るのが基本じゃないかと。離れた場所に三脚立てて……って、なんだか隠れて撮ってるみたいでイヤなんです。黒澤映画の望遠で撮った映像は大好きなんだけど、写真は広角で寄ったほうがいい。だからふだんは15ミリとか20ミリの広角レンズをつけている。結果的に、ぼくの写真は人物の顔を寄りで撮ったものが多くなります。
――カメラの使い分けは。
オートバイで村の中を移動するときなんかは一眼レフは重いので、コンパクトのパワーショットを胸ポケットに入れています。オートバイにまたがったまま、路上にいる靴みがきの子供を撮ったりできて便利ですね。何日か同じ場所に滞在するときは、一眼レフでぶらぶら歩きながら撮影します。ぼくは人を無断で撮ることはない。「撮っていいか」と必ず聞きます。怒るやつ、喜ぶやつ、カメラに興味津々のやつ、いろんな人がいて、それが面白い。ただ見て、通り過ぎるだけじゃなく、カメラを持って話しかけることで、相手が違う表情を見せてくれる。カメラは旅先で人と人の出会いをつくり、つないでくれる道具でもあるのかな。写真に撮った人のことを全て文章にするわけではないけど、たとえ書かなくても、自分の記憶に強く焼きつけられます。
――写真は、原稿を書くとき参考にするのですか。
もちろんです。取材前には当然、その国、地域の下調べをしますが、実際に行ってみると、想像していたのとは全く違う光景に出くわす。宿で出てきた食べ物や飲み物、人々の着ているもの。写真に写っている些細な情報が本を書くときの材料になります。写真を見ながら、「あの村は貧しいはずなのに、けっこういいワインが出てきたんだよな」なんて考えていると楽しくてしょうがない。イスラム圏に行ったとき、ちょうどラマダン(断食月)の時期だったのに、食堂に行くとふつうに酒飲んでヘラヘラしてるやつもいた。いいかげんなやつは、どの国にもいる(笑)。そういったマスメディアの報道対象にならない「ふつうの人」の存在を自分の目で確かめたい。はたから見たら徒労以外の何ものでもないかもしれないけど、それでいい。旅も写真も、誰かに頼まれてするものじゃないですからね。どんな国にも、貧しいなりに生活を工夫してたくましく、強く、格好よく生きている市井の人々がいる。それを知ることが、ぼくにとってはとても大切なんです。
※このインタビューは「アサヒカメラ 2010年6月号」に掲載されたものです