雑誌に載った原稿を単行本や他の媒体に転載・再録する場合、筆者としては、そのまま流用したいと考える。なぜなら、そのほうがラクだし、「再録のおいしさ」とは、そういうところにあるからだ。
しかし一度書いた原稿というものは、たいていの場合は気に入らない個所が目立つもので、「ちょっと手を加えてみようかな」という誘惑に駆られることも少なくない。作業上は面倒だが、実際に手を加えることもある。ただしその場合でも「程度」というものがあり、多くの場合、誤記や明らかな間違いの訂正、他の文章とのバランスを考えた上での表記の統一といった程度にとどまる。それ以上の加筆・改訂があった場合は、文末か本のどこかにその旨を記す。
以上のようなことは、なにも業界人でなくても知っている「常識」だろう。しかもその常識に当てはめれば、いや当てはめるまでもなく、書き足す・書き足されている文章が「悪口」というのは、筆者にとっても読者にとっても、考えすら及ばないことだろう。
今回、山中千尋は、その「考えすら及ばない」ような類のことを実践した。詳細は前回をご覧いただきたいが、原稿の再録時に何か書き加えることがあったとしても、それが「悪口」でも良しとする「常識」は、少なくともぼくは持ち合わせていない。それこそ「卑怯」であり、そんなことをする自分に嫌悪するだけだろう。
要するに山中千尋とは、文章を書く人間として、小さく姑息で卑怯な存在ということになる。一般読者(や批判する相手)には単なる再録とみせかけて、しかも相手が読むか読まないかわからないようなかたちで悪口を書き足す。これはフツーの感覚ではない。くり返すが、言いたいことがあれば堂々と書く。文句があれば、相手に確実に届くであろう場所で書く。とくに悪口・批判・反論の類であればこそ。それが文章を書く人間というものだろう。
補足すれば、彼女は、悪口であれなんであれ、書き足し改訂したことに対して、1行も説明していない。ふつうは「この文章はナニナニに加筆したものです」といった注釈があるものだが、何も触れられていない。そして著者は、何事もなかったように振る舞っている。なんらかの変更に対してクレジットを入れることは、初出の出版社、再録した出版社そして読者に対する「著者としての最低限の責任」だと思うが、どうやらこれも「常識」ではないらしい(おそらく書き足した部分は、ナカヤマに関する個所だけではないだろう。よってクレジットは、より求められる)。
問題は、なぜ彼女は悪口を書き足さなければならなかったのかということだが、その原因が、拙著『かんちがい音楽評論』にあることは間違いない。どうして断定できるのかといえば、ぼくが山中千尋に関して、否定的・批判的と受け取られるであろう可能性があることを書いた唯一の場が、先の本だったからである。
山中は『かんちがい音楽評論』を読み、カチンときたのだろう。書かれていたことが図星だったのか、あるいはまったくの見当外れだったのか。おそらく前者に近い「怒りの質」だったと推察する。なぜなら、仮に後者だった場合、今回のような陰湿な行為に及ばなかっただろう。なにしろそれなりに時間が経っていること、後者であれば、とっくに忘れていたとしてもおかしくない(実際、書いた本人=ぼくは忘れていた)。
ここで再び常識論を持ち出せば、自分が批判的に書かれた場合、一般的には「反論する」か「無視する」かのどちらかだろう。彼女は、そのどちらも選択しなかった。表面上は反論しなかったが、それは無視という意味ではなかった。それはまた、彼女自身の問題として「無視して済む」ものでもなかった。
今回の行動から逆算するに、反論できなかったのだろう。つまりは反論できないが無視もできない。よって、いささか大仰に聞こえるかもしれないが、復讐の機会を虎視眈々と狙っていた。その復讐の場が、今回のエッセイ本という自己満足的構図なのだろう。
ぼくは、その人物の性格や人格と、その人物が創り出すものは、まったく別のものであるというふうに考えている。しかし自分が創造したものには、それが音楽であれ文章であれ、考え方や姿勢に多くの共通項があるとみている。今回の山中千尋の、自分の創造物(文章)と読者に対して行なった行為は、同じく彼女の創造物(音楽)とリスナーに対する考え方と姿勢を投影したものであるように思う。
彼女は、同書において、さらに「残忍」かつ「度し難い行為」によって墓穴を掘っていく。次回につづきます。[次回9月9日(月)更新予定]