〈夜の空襲はすばらしい〉
坂口安吾の同名小説を原作とする近藤ようこの『戦争と一人の女』は、こんなモノローグではじまる。太平洋戦争末期、米軍機の空襲に脅えるようになった東京で、防空壕から夜空を見上げる女。〈私は夜の空襲が始まってから 戦争を憎まなくなっていた〉
親に売られて女郎となった女は、客の男に落籍(ひか)されて酒場のマダムをやっているとき、野村という男と知りあった。女は不感症ながら淫蕩で、野村も含めほとんどの常連客と関係をもった。ある晩、女は一緒に暮らさないかと野村を誘い、〈どうせ戦争で滅茶々々になるだろうから今から滅茶々々になって 戦争の滅茶々々に連絡しようか〉と野村もこれを受けいれる。こうして戦時下にはじまった二人の生活が、敗戦直後まで描かれる。
安吾の原作は野村の視点で書かれた女の話であり、その続編は、同じ事象を女自身の眼からとらえたものだった。共鳴しつつも微妙に異なる両者の思案は、漫画の中で淡々と丁々発止をくりかえす。互いに抱きあっているときもそれは続き、女が戦争を好む理由もほどなく読者にわかってくる。
終戦の日、野村は女に言う。
〈君の恋人が死んだのさ〉
その一方で、色餓鬼のごとく女の体を貪ったと野村は自嘲する。女はそれを聞き、〈でも 人間はそれだけのものよ〉と応える。
いつも不吉な、展望の欠片もない破滅の気配が色濃くまとわりつく女。それは戦争とよく似ているのかもしれない。そう考えれば、野村は戦争を貪り、首尾よく〈戦争の滅茶々々に連絡〉して生きながらえたことになる。歴史に登場することはない、現実を生きている男女の実状から描いた戦争の一面が、ここにある。
近藤の『戦争と一人の女』は、絶妙な構成と繊細な人物描写、何より女の美しさがからみあって昇華し、安吾の思いをたっぷり汲みつつ、原作の何倍も魅惑的な作品となっている。
週刊朝日 2013年1月25日号