そう、国も、そしてこの社会も、風俗を公的な空間から排除しながら黙認することで、そこで行われている暴力や貧困に目をつむってきたのだ。80年代からずっと、この国では、他の国にはないような変なサービスが手を替え品を替え、生まれては消えを繰り返し、性産業は持続され発展してきた。「妊婦専用風俗」や「出産直後の女性の乳が吸える風俗」とか、そんなサービスを思いつくような業界が、「こっちの水は甘いよ」と大きな口を開けて待っている。原宿など若者が多い街を歩けば「高収入アルバイト」の宣伝カーがにぎやかに音楽を鳴り散らかして走っている。「若ければ売れる」「若い女に価値がある」という圧を10代の女の子たちが内面化するような環境がつくられている。デリヘルの現場では、膣性交を禁止しながら、喉の奥の奥まで男性器を突っ込んだり、洗わない男性器をそのまま舐めさせたりするような性虐待が「オプション」としてサービスのように選べる。それが日本の今だ。

「風俗で働く人を差別するな」というのは当然の前提だが、性産業で働く人の中にも権力構造がある。妊娠や性感染症などのリスクを負い働く女性たちと、スカウトや経営者では立場が違う。労働問題や職業の平等という観点から性産業を捉えれば、「風俗を差別するな」というシンプルな闘いは正しいが、そういう観点“のみ”で風俗が語られるとき、こぼれ落ちるのは、性産業に巻き込まれ苦しんできた女性たちの声だということも忘れたくはない。今回の裁判は平等という観点からは不当だが(原告は控訴した)、女性の貧困や女性に対する性虐待を黙認してきた日本社会そのものの理屈、法の立て付けがゆがんでいる現実も突きつけるものだった。

 これを機に職業差別について語るだけでなく、そもそも「性を買う」文化そのものの問題性も、今後、私たちは問うていくべきなのかもしれない。はっきりしているのは、性を買うのは権利ではない、ということだ。その前提に立った議論が必要だ。

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