■毎日のように通報され、尋問された
児玉さんは「もうほんと、日記のような感じで、気になったものや、心に残った人を感覚的に、淡々と撮っていった」と、吐露する。
一方、なぜ、戦時下の街を東洋人がうろうろして、写真を撮っているのか、児玉さんの行動は周囲から怪しまれた。
「まったく被害を受けていない田舎の街でも緊張感はすごくて、カメラを持って街を歩いていると、とても警戒されました。毎日のように通報されて、尋問された。うんざりしましたけれど、日々、不審な行動をしていた自分が悪いので、仕方ない」
4月4日にいったん帰国。急きょ、写真展を開催すると、5月4日、再びウクライナに旅立った。
「この間、あまり人に会わないようにしていました。正直、いろいろ聞かれるのが面倒くさかったんです。1回行っただけでは何もわからない、という思いがあった。現地の状況を説明することに気持ちが乗らないっていうか」
そんなモヤモヤした気持ちが再びウクライナに向かう原動力となったのかもしれない。
「やはり、ちょっと見ただけで何かを表現できるとは思えないし、もう少し時間をかけて現地で考えたいと思いました。あと、東京の緊張感のなさに逆にストレスを覚えて、それから逃げるように行ったという感じもあります」
再びウクライナを訪れると、風景が一変していた。
「3月に行ったときは毎日のように雪がたくさん降ったんですが、5月に訪れるともう春で、草花がすごく力強く咲いていた。タンポポ、ナノハナ、チューリップとか。そういう花ががれきのなかにも咲いていて。人間の行為とは関係なく、植物には植物の時間が流れている、そんな感じがとても印象に残りました。風景もたくさん撮りました」
■ミサイルよりも怖かった地雷
2回目の取材では、ロシア軍から解放されたウクライナ北部の都市ハルキウや、郊外の村にも足を運んだ。
「列車でハルキウの駅に着いたら、ホームに降りたのは兵士と地元のジャーナリスト、自分だけみたいな感じで、ずっと砲撃の音が聞こえていた。ここで何か撮れるものはあるのかなって、ぼうぜんと立ち尽くす思いでした」