天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ(撮影/写真部・掛祥葉子)
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 50年に及ぶ格闘人生を終え、ようやく手にした「何もしない毎日」に喜んでいたのも束の間、2019年の小脳梗塞に続き、今度はうっ血性心不全の大病を乗り越えてカムバックした天龍源一郎さん。人生の節目の70歳を超えたいま、天龍さんが伝えたいことは? 今回は「稽古・トレーニング」をテーマに、つれづれに明るく飄々と語ってもらいました。

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 相撲時代の稽古といえば四股と鉄砲だ。俺が二所ノ関部屋に入ったときは13歳で、親方が「子どもでまだ骨格ができていないから」と、入門してから半年は四股と鉄砲ばかりやらされていたね。その頃の兄弟子はみんな17~18歳だったから、13歳の俺が一緒に稽古したら、ケガをしてしまう可能性が高いと踏んだんだろうな。

 入門前の夏休みに二所ノ関部屋に稽古見学に行ったとき、序二段くらいの先輩を見て「こんなのには負けないだろう」と思っていてね。そうしたら「あんちゃん、ちょっとやってみるか?」と言われて、まわしをつけて土俵に上がったら、0コンマ数秒でバーンと羽目板まで投げられちゃった。

 俺は地元の村相撲じゃあ負けなしだったけど、ここでは部屋で一番下の力士より弱いんだからまいったよ。俺を投げたその人だって、番付は結局序二段止まりだったからね。こりゃあ大変だと思ったよ。親方は当時としては先進的な考え方をする人で、今思えば先にからだをしっかり作らせようというその判断は俺にとってよかったと思う。

 半年間、みっちり四股と鉄砲でからだを作ってから、兄弟子たちに混ざって、土俵で相撲をとる“申し合い”をするようになったけど、そのときは調子よかったよ。まあ、部屋の中でも強い部類に入っていたんじゃないか。朝の4時から6時まで、当時は部屋に60人くらいいたから、みんなで入れ替わり立ち代わりで相撲を取るんだ。その頃に親方が言っていたのは「強いやつと数を切ってやれ」ということ。

 弱いやつと20~30番やるよりも、強いやつと15番なら15番と決めて、しっかり稽古した方が強くなるということだね。親方はことさら俺と金剛に目をかけてくれていて、大鵬さんたちの稽古が終わると「よし、嶋田(俺)と吉沢(金剛)は三番稽古だ」と言われてね。これがキツイ。当時の俺は14歳で金剛は17歳かな。その年だと体格差があるうえに、俺の方が入門は早いもんだから、負けようものならほかの兄弟子から「この野郎、新弟子なんかに負けやがって!」って、ケツを叩かれたりね。それが嫌で全体の稽古が終わると裸足で浜町のあたりまで逃げていったもんだ(笑)。

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天龍源一郎

天龍源一郎

天龍源一郎(てんりゅう・げんいちろう)/1950年、福井県生まれ。「ミスター・プロレス」の異名をとる。63年、13歳で大相撲の二所ノ関部屋入門後、天龍の四股名で16場所在位。76年10月にプロレスに転向、全日本プロレスに入団。90年に新団体SWSに移籍、92年にはWARを旗揚げ。2010年に「天龍プロジェクト」を発足。2015年11月15日、両国国技館での引退試合をもってマット生活に幕を下ろす。

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