志賀直哉は各地に転居しつつ、執筆に勤しんだ。大正デモクラシーに基づく自由主義を掲げた白樺派の巨星は、滞在先で美味いものを見つける名手でもあった。
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■朝食は必ずパンだが外では和食も
<毎日三度、一生の事だから、少しでもうまくして、自分だけでなく、家中の者までが喜ぶようにしてやるのが本統だと思う>と、随筆「衣食住」に記した志賀直哉。おいしいものを食べることに目がなく、大の洋食好きで、コーンフレーク、キャビア、ブルーチーズ、フォアグラを好んだと伝えられる。
朝食はトースト、ミルクティー、オムレツかベーコンエッグだったそうだ。兵庫・城崎の温泉旅館に逗留したときも洋食を食べたいと所望した(詳細は下記「みなとや」参照)。
そう聞くと、かなりわがままな性格のようだが、実際は違うらしい。「スコット」の蓮見健一郎さんによると、
「うちは谷崎潤一郎先生もご常連として利用してくださいましたが、谷崎先生はご注文が多く、ついに親父は出入り禁止にしたほどでした。でも志賀先生は何を食べてもおいしいと喜んでくださって。親父ともよく歓談をし、楽しい時間を過ごされたそうです」
■進駐軍と懇意の洋食店で肉料理を@熱海
志賀直哉は1948年から55年まで、熱海にあった知人の別荘を借りて住んでいた。その間、足繁く通ったのが、洋食店の「スコット」。
同店は終戦の翌年(46年)に開業。店主の蓮見健吉氏は進駐軍に伝手(つて)があり、牛肉やコーヒーなどを仕入れていたという。2代目店主の健一郎さんが語る。
「志賀先生は朝の散歩が大好きで、毎日うちに寄ったそうです。親父(健吉氏)がまだ店に出ていない時間帯は、勝手に店に入り、自分でコーヒーを淹(い)れて飲んでいたと聞きました」
■晩年は出前の鰻重に舌鼓を打った@東京
志賀は1955年、建築家・谷口吉郎氏が設計した東京都渋谷区常磐松町(現・渋谷区東1丁目)の家に引っ越した。
<便利な事は此上もなく便利で、のれん街のある東横百貨店まで、歩いて七分><夜など、品川の海からボウーと汽船の汽笛が聞こえて来るのも却って静かな感じがする>(「熱海と東京」から)という場所で、晩年を過ごした。
寛政年間に創業した老舗鰻店「野田岩」によると、
「当主(5代目・金本兼次郎さん)が、先生のお宅に配達をさせていただいておりました」
終(つい)の棲家(すみか)で、出前の鰻に舌鼓を打ったようだ。
■温泉療養中に足繁く通った菓子店@城崎
1913年、山手線にはねられて重傷を負い、その養生のため志賀は城崎温泉の三木屋という宿に3週間逗留した。その間、朝食にパンを食べたいと所望。しかし当時、城崎にはパンを売る店がない。三木屋は老舗菓子司の「みなとや」に相談した。同店の久保田一三社長が説明する。
「どうしてもというお話でしたので、うちで取引のあった神戸のパン屋に相談し、パンとバターを届けてもらいました」
本人も「みなとや」をたびたび訪れたが、何を購入したか定かではない。ここで紹介する「綾たちばな」は古くからの看板商品。柚を用いた棹物を求肥(ぎゅうひ)で巻き上げた。
■老舗のすっぽん鍋は『暗夜行路』に登場@京都
<すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へ入り、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当りにあった>と『暗夜行路』に出てくる店が、「大市」。三百数十年の歴史を誇るすっぽん鍋専門店だ。
木造2階建ての店舗は、約350年前に造られた建物が基礎となっており、50年ほど前に宮大工の手で5年の歳月をかけて解体・再建された。
『暗夜行路』で<土間から、黒光りのした框の一ト部屋があり、其所から直ぐ二階へ通ずる(略)段々があって、これも恐らく何百年と云う物らしく、黒光りのしている>と記された階段も健在だ。
「志賀直哉、芥川龍之介、直木三十五の3先生が一緒に食事をして『うまさにうつつを抜かした』と言ったと伝えられています。とはいえ、今となっては確認のしようもないのですが」(18代目店主の青山佳生さん)
■スコット
静岡県熱海市渚町10-13/営業時間:12:00~13:30最終入店、17:00~19:00最終入店/定休日:木
■野田岩麻布飯倉本店
東京都港区東麻布1-5-4/営業時間:11:00~13:30、17:00~20:00最終入店/定休日:日、月、不定休あり
■みなとや
兵庫県豊岡市城崎町湯島416/営業時間: 8:30~17:30、20:00~22:00/不定休
■大市
京都市上京区下長者町通千本西入ル六番町/営業時間:12:00~12:30最終入店、17:00~17:30最終入店、19:00~19:30最終入店/定休日:火
(取材・文/本誌・菊地武顕)
※週刊朝日 2023年3月10日号