映画の登場人物たちはこうして水中のキャラクターを軸に描かれており、中でも私が刮目(かつもく)したのは薄原静香コーチ(綾瀬はるか)だった。その佇まいは実際に私を指導してくれた高橋桂コーチが憑依(ひょうい)したかのようで、指導法も再現されていた。本人はもちろん泳げる人だが、自分が泳ぐことより「泳げる」を人々に与えることによろこびを感じる。泳ぐコツは「泳ごうとしないこと」。泳ごうとすると体中に力が入って泳げなくなる。大切なのは力を抜いて伸びる。伸びるというより「伸びている」と確認する。それだけで大丈夫。泳ごうとしなければ泳げる。なぜならあなたはもう泳いでいるからです、と高橋桂コーチは私を導いてくれた。
生きようとしなくても生きちゃってるという境地なのだ。
綾瀬はるかさんの顔はまるで溺れる衆生を救う弥勒菩薩のようだった。そして最も印象深いのは夜のプールに仰向けになって浮かぶ姿。うっすらと涙を流しているようで、思わずもらい泣きしそうになる。この涙はアンデルセンの「人魚姫」が最後に流した涙ではないだろうか。海で暮らしていた人魚は陸に上がって初めて涙を流す。その初めての涙がお別れの涙だったという切ない物語。人を解き放すばかりで自分を解き放せない悲しみ。薄原静香コーチは人魚姫のように溺れる雄司を助けたし、陸上を歩くと激しい痛みに襲われる。「水泳はすごいんです」と叫んだ時の透き通る声は、魔法使いに奪われた人魚姫の美声を聞くようで私は打ちふるえた。渡辺謙作監督は意図していないと思うが、彼女の美しさは遙か北欧の海にも通じているようで、それゆえ私はカンヌを確信した次第なのである。
ちなみに映画「はい、泳げません」はミニシアターなどで上映中です。水中に入るつもりでじっくりご鑑賞いただければと切にお願い申し上げます。
(ノンフィクション作家 高橋秀実/生活・文化編集部)