■広島を撮ることが嫌になった
ところが、広島を撮るようになると、そのリアリティーが迫ってきた。
「カメラを持って広島の街を歩いたら、もうどうやったってカタカナの広島から逃れられない。そういうもんだと思った。それを意識し始めると、これまでに知っている広島を説明的に撮ろうとしている自分がいた」
撮影するのが怖かった。「被爆地・広島」を撮るという重圧感。「被爆者に対して失礼じゃないようにとか」。そんな思いが藤岡さん自身をしばった。
「これまでにいろんな人が広島を撮って、立派な作品を残している。自分が撮影した写真はそれを模倣したようなものになっていた。それで嫌になった。私が撮ってもしょうがない、もう私には撮れないな、と思って、1年もたたないうちに撮るのをやめた」
そんな藤岡さんが再びカメラを持つようになったきっかけは、カメラそのものだったかもしれない。広島を撮り始めた際、カメラをフィルムからデジタルに切り替えた。すると、シャッターを切る回数が飛躍的に増えた。デジタルカメラであればフィルム代も、現像料もかからない。
「いろいろなものを撮りました。カタカナの広島とは関係ないものも写した。広島城とか、お祭りとか。そこから自分が気づいていない広島が浮かび上がってくるようなことがあるんですね」と、藤岡さんは振り返る。
日常的にスナップ写真を撮影し、それを集めることで表現できる広島があるのではないか。そう、考え直した藤岡さんは撮影を再開した。
「これが広島だとか、こういうふうに見せようとか、そういうことから解き放たれて撮るようになった。私と広島の関係を撮ろうとした、というか」
■写真をやめるつもりだった
とはいえ、「これを撮ろう」という明確な考えがあるわけではなかった。
「とにかく、広島を撮るって、歩くことだったんです。でも、私は呉の人間だから、どう歩けば何にぶつかるか、わからなかった」
そんなとき「目印となったのが、原爆ドーム」だった。
「広い広島の街を撮っていて、遠くから原爆ドームが見えるわけじゃないけれど、何か目的地がないとフラフラと歩けない。その道すがら、いろんなものを撮るんですけれど、原爆ドームのある平和記念公園を目指して歩いてきたようなところがあった。目的地を決めておくと、すごく安心するっていうか、最終的に原爆ドームが見えてくる」
撮影しているときは原爆ドームを意識することはなかった。原爆ドームが写った写真を集めて作品をつくろうと思ったこともない。
「『川をゆく』を撮っていたころは、言葉の感じはあまりよくないですけれど、何かのついでに撮るっていうか、アルバイトの行き帰りに撮っていた」
アルバイトでお金をためて、撮りためた作品を写真集にまとめたかった。そして17年夏、『川をゆく』を出版した。