ジャーナリストの田原総一朗さんは、日本の安全保障のあり方を問いかける。
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現在、「新しい戦前」という言葉が、多くの日本国民の間で危機感を持って語られている。
昨年、あるテレビ番組内での黒柳徹子さんとタモリさんとのやりとりで飛び出した言葉のようだ。
「戦前」という言葉で私が思い出すのは、1937年の日中戦争から、41年の真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争までの4年間のことだ。
アジアは歴史的に欧米の植民地獲得競争の標的となってきた。東南アジアにおいては、タイ以外はすべて植民地にされた。植民地にされるということは、強国の占領下となり、国家の主体性というものがなくなるということだ。
当然ながら日本もその標的にされた。日本としてはもちろん植民地にされたくない。そのためには、欧米列強に対抗できる軍事強国にならねばならない。
そして、軍部の力が突出した。制御できる国を持とうと図り、軍部が南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業だと称して、中国側の兵営などを攻撃した。これが満州事変である。その後、錦州を攻撃したことで日本は国際連盟から脱退せざるを得なくなった。
問題は、さらにその後の日中戦争である。
中国との戦争については、満州事変を推進した大川周明や石原莞爾らも強く反対した。
日中戦争など始めれば、世界最大の強国である米国と戦わざるを得なくなる。勝ち目はまったくない。当時の近衛文麿首相も日中戦争には反対の立場で、近衛の部下たちの多くも反対した。
だが、首相である近衛があからさまに反対とは言えず、何とか早急に終わらせたいと願った。そこで広田弘毅外相とドイツの中国大使トラウトマン、そして蒋介石による三者会談をできるだけ早く行いたいと考えた。
当初、蒋介石は三者会談を完全に無視していたのだが、日本軍に上海を制圧されて考え方を変え、三者会談に応じる決意をした。ただ、その返答を待つ間に日本軍は中国の南京を占領した。