即戦力右腕と期待されながら、実質1年で終わったのが、94年の2位・織田淳哉だ。
早大時代は4年間で74試合に登板し、93年秋の優勝に貢献するなど、通算33勝、396奪三振を記録。4年時には主将も務め、通算9本塁打の強打者でもあった。
入団1年目、95年7月12日のヤクルト戦で6回に4番手として1軍デビュー。先頭の飯田哲也から三振を奪ったあと、連打を許し、1死一、二塁のピンチを招いたが、落ち着いて後続を断ち、無失点。「緊張はあまりしませんでした」と強心臓ぶりをアピールした。
その後もフォークを武器に6試合連続リリーフで無失点に抑え、「織田は四球がないから安心だよ」と堀内恒夫投手コーチを喜ばせた。西山一宇とともに“新・勝利の方程式”ともてはやされたのも、この頃だ。
だが、7月31日のヤクルト戦でオマリーに2ランを被弾し、初失点を記録すると、しだいにリリーフ失敗も目につくようになり、最終的に16試合0勝0敗、防御率4.57。アーム式の力投型だけに、疲れて打ち込まれることも多かった。
翌96年シーズン中、手薄な捕手陣をカバーするため、長嶋茂雄監督の発案で球界では異例の捕手にコンバートされたが、守備面で結果を出せず、一塁へ再コンバート。さらに98年シーズン中に再び投手に戻ったものの、1軍登板の機会のないまま99年限りでユニホームを脱いだ。
打者としての評価も高かったことが結果的に災いし、どっちつかずで終わった感もある。
これまた“未完の大器”で終わったのが、96年の2位・小野仁だ。
秋田経法大付3年の94年、高校生で史上初の世界選手権日本代表に選ばれた17歳の左腕は、150キロ台の速球を武器に、“世界最強”キューバの主砲2人を連続3球三振に切って取り、ドラフトの超目玉と注目された。
だが、高校から即プロ入りの道を選ばず、96年開催のアトランタ五輪出場のためのアマチュア凍結選手として日本石油に入社。五輪出場後、巨人に逆指名入団した。