会ったことがなければ受け入れてもらえない。それで広島の発生生物学会に招待講演でいらしたときにつかまえてお話しし、さらに米国・コールドスプリングハーバーでの学会で講演されるということを探し出して、その学会に参加して質問に行きました。質問に行くのはすごく大事です。手紙も出しました。それでようやく、奨学金を自分でとってくるなら受け入れるというお返事をいただけて、留学が実現できました。
この先生のお子さんが糖尿病で、それで先生はカエルの研究をやめてヒトの研究を始めた。それは私が行く前のことなんですが、それで私もヒトES細胞を使ってインスリン産生細胞をつくる研究を始めました。
――ちょっと時間を戻しますが、お生まれは台湾なんですね?
はい、台北市生まれです。姉と弟とは1歳半ずつ違います。父は、台湾の奇美実業という会社の創立メンバーの一人で、私が小学6年生のときには家族はシンガポールに住み、父はインドネシアやマレーシアと行ったり来たりして仕事をしていました。中1のときに台北市に戻り、中2のときに一家で東京に来ました。姉は中3でインターナショナルスクールに入りましたが、ここは学費が高いので私と弟は公立中学に入れられました。日本語には漢字があるので、シンガポールで英語を勉強したときよりは気が楽でしたよ。
高校は都立戸山です。高3のときに両親が台湾に帰りました。そのとき、私と弟は父から「君たちはアメリカに移りなさい」と言われたんですよ。姉はインターナショナルスクールから米国の大学に進んだので、父としては私と弟もアメリカで教育を受けたらいいと考えたのでしょう。私たちもそのつもりで高3の夏休みに準備万端整えたのですが、最後の最後になってビザが下りなかった。理由はよくわかりません。台湾籍だったからかもしれません。仕方がないので退学手続きをした高校に戻り、先生に「戻ってくるなら東大を受けなさい」と言われて受けました。