ちょうど同じ時期に、主人の東大医学部の恩師の清水孝雄先生が生化学の准教授から教授になられて主人を助手として呼んでくださった。偶然でしたが、おかげでめでたく二人で東京に移りました。
その年の12月に私は博士号を取得し、いわゆるポスドクとして研究を続けました。3年後の10月に2人目を産みました。この年に御子柴先生が科学技術振興事業団創造科学技術推進事業(ERATO)プロジェクトの研究代表に就任され、私は産休明けの翌年2月からERATOの研究員になりました。任期付きですが、お給料をいただける職に就いたわけです。
――子育てはどのように?
阪大のときは研究室の隣のマンションに住んで、二人で交代交代で何とかやっていた。育児は毎日が戦争みたいなんですけど、まさに主人は「戦友」です。子どもは大学の保育所に預けましたが、しょっちゅう風邪を引いて、1カ月も風邪が抜けない時もあった。昼は私が仕事をして主人が子どもを見て、夜は交代するとか。主人の母に来てもらったこともありますが、基本は二人でやりました。
アフリカツメガエルに卵を産ませるときはどうしても夜中まで仕事になるんです。そういうときはベビーシッターも利用しました。保育園のお迎えからごはんを食べさせて寝かしつけるところまでやってもらうというサービスがあって、とても助かりました。
――そんなに大変だったのに、2人目を産む決断をよくされましたね。
私には姉と弟がいますので、子どもにもきょうだいがいたほうがいいと思ったんです。年があまり離れないほうがいいとも思っていました。5歳違いになりましたが、同じ小学校に通えて良かったと思います。
ただ、2人目が生まれてからの子育ては本当に大変でした。主人は仕事のほうも大変で、疲れてしまったんでしょう。そのうち「もう仕事をやめたい」「もう研究者もいい」なんて言い出して。主人はとにかく人のために働いちゃう人で、助手の仕事を一生懸命やりすぎたんだと思います。それで、私から留学を提案しました。二人で行けば育児も何とかなるだろうと思いました。
――留学先はどのようにして見つけたのですか?
私はハーバード大学の発生生物学で有名なメルトン教授の研究室に入れてもらったのですが、ラボに入るテクニックは御子柴先生に教えてもらいました。有名教授には希望者が殺到するので、メールを出してもダメなんです。