出会ったのは東大に入学したときで、同じクラスでした。しかもESS(英会話クラブ)と自然科学研究部というサークルでも一緒。日米学生会議というのがあって、日米の学生が40人くらいずつ集まって交流するんですが、大学2年の夏休みにはこれに一緒に参加してアメリカに行きました。
――どのくらいの期間ですか?
結構長かったですよ。国連に行ったり、大学の寮に泊まったり、ホームステイしたり。全部で1カ月ぐらいでした。
――それで仲良くなった?
その前からですね。1年生になってすぐから、クラスメートの中で一番気が合う人でした。何でもすごく真摯にやる人で、そこに惹かれたというところですかね。
――3年生で薬学部に進学されました。
将来のつぶしもきくし、いいかなと思って。行ってみたら、ちょうど分子生物学が栄え始めた時期で、とても魅力を感じました。赤芽球という細胞に薬剤を加えると赤血球に変わっていく(分化する)んですけど、そういう実験を学部と修士のときにしました。
ただ、修士のときに入った研究室はけっこう厳しくて、自分が研究者としてやっていけるか不安になり、就職しました。当時の大学には女性のロールモデルもいませんでしたし。主人は医学部で6年間ですから、同じ時期に卒業することになって、結婚しました。
就職した帝人では、生物医学研究所の研究員として2年働きました。創薬の現場でしたけれど、そのうち大学の基礎研究がすごくなつかしく思えて。やっぱり私は実用化を目指す研究よりサイエンスをやりたいと思うようになった。すると、研修医をしていた主人が大阪大学の分子遺伝学の博士課程に行きたいと言い出し、私は自分の進学先を一生懸命探して、二人して大阪大学の博士課程に入りました。
私が入ったのは、脳神経科学者として著名な御子柴克彦先生の研究室です。生物学の基礎といえば発生だ、と思って先生に相談したら、アフリカツメガエルの卵を使って実験するのがいいと。それでカエルにホルモン剤を打って卵を産ませて、卵からどのように発生が進むのかの研究に取り組みました。
ところが、まもなく御子柴先生は東京に移るという話が聞こえてきて、私は大ショックでした。それでも博士号をとるまでは阪大に残ることにして、ドクター2年の8月に長男が生まれました。1992年に御子柴先生は東京大学医科学研究所の教授になったので、私は阪大に所属したまま研究の場を東大医科研に移しました。