2位は巨人にドラフト1位で入団したが、目立った活躍ができなかった大森剛だった。慶大でスラッガーとして名を馳せ、1988年のソウル五輪では中軸を担って銀メダル獲得に貢献。巨人の1位指名を熱望して入団したが、本職の一塁でも外野でも1軍に定着できなかった。ファームでは格の違いを見せて打ちまくったことから「2軍の帝王」とも揶揄された。投票理由としては、「豪快な打撃が売りだったが、柔らかくてヒットを打つのがうまい。出場機会が与えられれば、打率3割、20本塁打を残し続けられたでしょう。他球団に入った方が……と思ってしまいます」「巨人の巨大戦力に埋もれてしまった選手。変化球への対応が問題視されていたが、1軍で打席に立ち続ければ修正できたと思う。アマチュア時代の輝きを考えればもったいない」など。坂本勇人の入団時の担当スカウトを務めるなど、現役引退後はスカウトとしての手腕を高く評価されている。
3位の藤王康晴は高卒で中日に入団。1年目の84年に34試合出場で打率.361、2本塁打、8打点。スター選手として飛躍が期待されたが、その後は伸び悩んだ。89年オフに日本ハムへトレード移籍し、92年限りで現役引退した。藤王の名を挙げたスポーツ紙記者は、「他の選手たちが『あいつは天才』と一目置いていました。左の長距離砲でミートがうまかった。地元の享栄高校出身で注目度が高く、夜の会食の席に誘われることが多かった。野球に集中できる環境だったら……」と惜しんでいた。
4位は1軍登板なしに終わった元巨人の高校生ドラフト1巡目左腕・辻内崇伸。大阪桐蔭でエースとして脚光を浴び、3年夏の2回戦・藤代戦で大会最多タイ記録(当時)の19奪三振をマークした。最速156キロの直球が武器だったが、プロでは制球難と度重なる故障でスポットライトを浴びることはなかった。「高卒の左腕投手を育てる難しさを感じる。才能は間違いなくすごかった」「左のエースとして期待されたが、年々輝きが消えていった。投手としてのスケールは菊池雄星(ブルージェイズ)に負けていなかった」などのコメントが見られた。
5位は元阪神の安達智次郎と、元中日の平田洋が2票ずつ。安達は松井秀喜(現ヤンキースGM特別補佐)と同学年で、村野工では左腕からの150キロ近い直球を武器に活躍し、プロでも「将来のエース」と期待された。だが、フォーム改造で球威が失われ、外野手に転向。投手に再挑戦したが開花しなかった。現役引退後は阪神の打撃投手を務めたほか、飲食店経営など精力的に活動していたが、16年に41歳の若さで亡くなった。
平田は豊田大谷で甲子園出場はなかったが、豪速球を武器に「高校ナンバーワン投手」と評された。複数球団がドラフト1位候補として熱視線を送る中、地元・中日への入団を熱望。その夢が叶ったが、プロでは投球フォームで試行錯誤を続け、未勝利でプロの舞台から消えた。(今川秀悟)