哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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『サル化する世界』という本を出した。自著の宣伝をこういう「公器」で行うことは控えているのだけれど、今回は反応が興味深かったので、取り上げる。
発売されて5日目に重版が決まり、アマゾンのいくつかのチャートで1位になった。私の本は普通そんなに売れないから、たぶん「サル化」というタイトルにインパクトがあったのだろうと思う。
ずいぶん前になるが、朝刊を開いて養老孟司先生の『バカの壁』の新刊広告を見て、本屋に駆けつけたことがあった。昼前だったが、平積みされた新刊の中でそこだけ凹んでいた。私と同じ反応をした人がそれだけいたということである。
「バカの壁」というのが「来た」のである。よく意味はわからないが、そういうものがこの世にはあり、それを手がかりにすると、いろいろなことが腑に落ちるのではないか。そういう期待を抱かせるタイトルだった。
「サル化する世界」もちょっとだけそれに近いのかと思う(ちょっとだけだが)。
「朝三暮四」という「変な話」がどうして久しく語り伝えられているのか考えたのである。このサルたちの「今の自分さえよい思いができれば、未来の自分が飢えても気にならない」という自己同一性保持力の弱さを荘子は矯正すべき欠点だと考えた。それは「サルみたいな人間」が実際に彼の周りにいたからだと思う。というのは、「守株待兎(しゅしゅたいと)」も「矛盾」も「刻舟求剣(こくしゅうきゅうけん)」もみな春秋戦国時代の話だからである。「今、ここ」にしかリアリティーを感じられない「サルみたいな人」に過去と未来を教えることが開明化の急務だと荘子も韓非も考えたのである。
過去と未来に広がる時間の流れの中に自分を位置づけ、今ここにおける行動の適否を判断できる能力がない人には後悔も不安もないが、その代わりに反省も予測もできない。確率や蓋然性という概念がない。矛盾律も因果関係も理解できない。そういう「サルみたいな人」が戦国時代から2千年以上経った令和の聖代に大量発生してきた。そんな気がして、そのことを書いたのであるが、タイトルを見ただけで「なるほど、あのことか」と膝を打った人が少なくなかったのだろう。
※AERA 2020年3月16日号