メディアに現れる生物科学用語を生物学者の福岡伸一が毎回一つ取り上げ、その意味や背景を解説していきます。前回のコラムに続き、「生命とは何か」を問いた、理論物理学者エルヴィン・シュレーディンガーを取り上げる。
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木を見て森を見ない傾向にある専門家に対して、違う分野の科学者が「ビッグピクチャー」(全体像)を示しうることがある。私が思うに、それがもっとも象徴的に行われたのが、物理学者エルヴィン・シュレーディンガーによる論考『生命とは何か?』ではないだろうか。
この本は大きく分けて前半と後半に分かれている。前半部分は、当時(20世紀半ば)、生物学最大の謎だった遺伝子の正体についての予言を行ったことだった。細胞から細胞へ、遺伝情報を運ぶ物質は何か。生物学者たちは必死に研究を進めていた。複雑な遺伝情報を担うためには、複雑な分子構造が必要だ。そのためにはアミノ酸による複雑な順列組合せを構築できるタンパク質がその任を負っているだろう。これが学界の主流派の見方だった。
一方、細胞の核に含まれるゼリー状の酸性物質、すなわち核酸が遺伝情報を運んでいることを示唆するデータを、米国ロックフェラー大学のエイブリーが出していたが、それは精製した核酸のサンプルにタンパク質が混入しているためだとの反論を受けていた。インターネットがまだなかった時代、アイルランドのダブリンに隠遁(いんとん)していたシュレーディンガーは、このような当時最新の研究データや論争に接していたわけではない。
しかし、彼はあくまで理論的に遺伝子が備えるべき物質的な特徴を考察していた。遺伝子は情報を記録しなければならない。生命の情報、それは細胞の形や機能を決め、そこで働くべきタンパク質の性質を決めなければならないから、膨大な量となる。しかも多種多様だ。だから遺伝子はミクロな目でみると、同じパターンの繰り返しではなく、異なるパターンの連鎖、つまり非周期性を持っているに違いない。
それからもうひとつ、重要なことがある。