豊臣政権下では同僚であり、ライバルでもあった外様大名たち。彼らから家康党を選別し、配下として活用することは、関ヶ原での勝利、そしてその後の幕藩体制の確立には必須だった。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.25 真説!徳川家康伝』では、そんな外様大名を「武力」「知力」「信頼度」などの指標で歴史学者の小和田泰経氏が採点。1位の黒田長政は先日報じたが、ここでは2位と3位を紹介する。
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2位 細川忠興 / 愛妻の訃報に接し、憎悪の念が沸騰
第2位は、関ヶ原の戦いで東軍に与して戦った細川忠興が、ランクイン。
足利将軍の直臣であった細川幽斎の嫡子。妻は明智光秀の娘の玉で、キリシタンとなり、ガラシャと称する。
父に似て、一流の教養人でありながら、性格は非常に激しく、石田三成への憎悪から、黒田長政らと共に反三成派の七将の一人に加わっていた。
家康の会津討伐に従軍。人質として残していたガラシャが亡くなったことを知ると、三成への憎悪をさらに募らせ、関ヶ原の本戦では三成の本隊と激突した。
丹後国田辺城の留守を預かった父幽斎はわずか500の兵で1万5000からなる西軍相手に約2カ月におよんで抵抗を続け、停戦を求める勅使の説得に応じる形で城門をひらいた。1万5000もの大軍を足止めし、主戦場である関ヶ原に行かせなかった功績は高く評価された。
戦後、細川父子は丹後国12万石から豊前一国と豊後国の国東郡など39 万9000石へと大幅な加増を受け、黒田家と共に島津家に対する監視と抑えの役割を担わされる。
忠興には嫡男忠利の下に三男興秋がおり、これを人質として江戸詰めにするつもりでいたが、興秋は江戸へ下る途中で脱走し、京の建仁寺で出家後、よりにもよって大坂城へ逃げ込んだ。家康からは日ごろの忠興の忠節に免じて赦免されたが、忠興は立腹のあまり、興秋を自害させている。
足利将軍の直臣という家系のせいか、忠興は人一倍、体面を重んじた。