技術者たちが「対策不可避」と判断したきっかけは、政府の地震調査研究推進本部(地震本部)の予測だ。岩手・宮城県沖で発生した明治三陸地震(1896年)と同じような津波が福島県沖でも起こりうるという予測を、地震本部が02年7月に発表していた。

 津波担当の社員は、この予測に基づくと福島第一の津波の高さは、敷地の高さ(10メートル)を大きく超える15.7メートルになることを08年3月までには計算し、対策着手を提言していた。しかし被告人の武藤氏は「研究しよう」と言っただけで、すぐには対策を始めなかった。そして経営陣は、09年6月に予定されていた対策締め切りを16年まで延ばし、事故当時まで結局、何もしていなかったのだ。

 武藤氏が対策を保留にした08年7月の会合の様子について、検察官役の指定弁護士に問われた津波担当の社員は、こう証言した。

「それまでの状況から、予想していなかった結論に力が抜けた。(会合の)残り数分の部分は覚えていない」(18年4月、第5回公判)

 この裁判で、最も印象に残る場面だ。

 この証言で、スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故(1986年)を思い出した。打ち上げ前夜、技術者たちは爆発原因となった部品の不具合に気づき、打ち上げ中止を求めていた。ところが上層部は「根拠が不確実」とこれを採用せず、予定通り打ち上げ、発射直後に爆発して7人の宇宙飛行士が全員死亡した。

 シャトル事故の数カ月後の調査報告書には、技術者の実名入りで、そんなやりとりが記載されている。しかし日本では、事故から7年も経過して、刑事裁判でようやく明らかになった。(ジャーナリスト・添田孝史)

AERA 2019年10月7日号より抜粋