

哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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凱風館寺子屋ゼミの今期の主題は「比較敗戦論」である。さまざまな国や集団が敗戦経験をどう生き延びたのか、比較して論じるのである。
今週の発表はベトナム戦争。戦争の経緯を経時的に確認し、その歴史的意味を吟味しているうちに、「米国にとって歴史上初めてのこの敗戦」が米国にそれほど深い傷を負わせていないことに気がついた。現に、1975年のみじめなベトナム敗戦からわずか16年後に米国は東西冷戦に勝利し、「完全復活」を遂げた。どうしてそんなことが可能だったのか。
私見によれば、それはベトナム敗戦が米国にとっていかなる経験であったかを彼ら自身で徹底的に抉(えぐ)り出したからである。私たちはベトナム戦争が米国人にとってどれほど深いトラウマ的経験であったかを知っている。けれども、世界中の人々が米国人の外傷経験を熟知しているということ自体、実はかなり例外的なことではないのか。
小説にはティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』があり、映画にはフランシス・コッポラの「地獄の黙示録」やオリヴァー・ストーンの「プラトーン」やマイケル・チミノの「ディア・ハンター」がある。これらの作品は「ベトナムという地獄」のリアルを可視化した。帰還兵たちが心に負った回復不能の傷は「タクシードライバー」や「ランボー」が描き出した。戦争指導部の判断ミスは『マクナマラ回顧録』や『ベスト&ブライテスト』が暴いた。
「それがどうした。米国はそれだけの非道を犯したということだ」と言い放つ人もいるかもしれないが、同じことをした国が他にあるだろうか。例えば、ベトナムでみじめな敗戦を喫して、1世紀にわたって支配してきた植民地を失ったフランスはそのトラウマ的経験をどのような文学作品や映画や歴史研究として開示してきただろう。大日本帝国とのインドシナ共同統治についてフランスはこれまでどんな史料を公開してきたか。
米国が強国たり得ているのは自国の「負の歴史」を容赦なく開示することによってのみ国民は敗戦の外傷的経験から立ち直ることができるということを知っていたからではあるまいか。
※AERA 2019年8月5日号