経済学者で同志社大学大学院教授の浜矩子さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、経済学的視点で切り込みます。
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GAFAという頭文字用語がしばしば我々の目に留まるようになった。GはGoogleのG。FはFacebookのF。AはAmazonとAppleのAである。あまりみかけなくなったが、FANGというのもある。FとGは右に同じ。NはNetflixのN。AはAmazonとAppleのいずれかだ。FANGという言葉は実際にある。「牙」の意だ。これらの巨大IT企業が牙を剥いたら、確かに怖い。GAFAに実際の言葉としての意味はない。だが、だからこそ不気味さはFANGに勝る感もある。
GAFAのうち、GoogleとAmazonとFacebookは、いわゆるプラットフォーム企業だ。日本人にとって最もなじみ深いプラットフォームは駅の停留場だが、「台」あるいは「棚」や「舞台」の意がある。GAF御三家はこれらの意味におけるプラットフォーマーだ。彼らが提供する棚あるいは舞台の壇上に乗せてもらえるか否かが、世界中の多くのメーカーやサービス事業者たちにとって死活問題となりつつある。
プラットフォーム屋たちが広げる巨大な屋台の上に何が乗っているかが、彼らの店先を訪れる我々の消費行動も強く左右するようになっている。彼らは、我々が何を選ぶかを詳細に掌握し、次の陳列構成を決める。
プラットフォーム屋たちは、一体何者か。自分たちの控えめな屋台では、人の目に触れる機会が少ない小さき者たちにビッグステージを与える救世主か。消費者に多くの選択肢を提供しようと励む善意の大商人か。はたまた、自分たちの屋台に乗っかるために小さき者たちから法外の「ショバ代」をふんだくるマフィア集団か。消費者の嗜好と財布を思うままに操ろうとする悪徳商人群団か。
善玉か。悪玉か。プラットフォーム屋たちをどう位置づけるかは、なかなか難しい問題だ。結局のところ、万事は彼らの心がけ次第だ。世のため人のために屋台を広げるのか。ひたすら、我欲に基づいてプラットフォーム事業を展開するのか。
ポイントは、彼らが公益性という概念をどう受け止めるかだ。収益性と公益性をどうバランスさせるか。この自覚の深さが、彼らの屋台の品位を決める。
※AERA 2019年4月22日号