お笑い芸人のマキタスポーツさんによる「AERA」の連載「おぢ産おぢ消」。俳優やミュージシャンなどマルチな才能を発揮するマキタスポーツさんが、“おじさん視点”で世の中の物事を語ります。
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「東京的」というものを常に意識しがちだ。地方生まれだからだろう。
東京出身者は「東京」に対する愛着がないか、もしくは変に偏っている。荻窪出身なら荻窪に思い入れはあっても沿線にない渋谷には関心がなく、仕事以外で行ったことがないとか、あるいは、亀戸出身で落語好きな者が、急に「旧東京市(その当時の行政区画15区)が本当の東京」とか乱暴なことを言ったり(亀戸はその括=くくりじゃ東京じゃないのに)、私がしたい「東京」の話になかなかならないのである。
また、「東京のことをいつも問題にするのは地方出身者」という因縁をつけられたこともある。例えば長渕剛氏の「とんぼ」の歌詞、「死にたいくらいに憧れた~東京のバカヤローが~♪」がそれだ。知人の生涯中野区のその人は「何故勝手に憧れ、いつの間に失望し、揚げ句、罵(ののし)ったりするのか?」と眉をひそめた。その人の気持ちもわかるし、長渕氏の気持ちもわかる。
カギ括弧で括る「東京」は“土地”ではないと思っている。強いていえば、“概念”か。そりゃその土地で生まれ育てば「東京」はわかりづらい。「東京」は主に他所(よそ)からやって来た人たちが作るものだからである。そもそもの成り立ちからそうだし、「無い」ところに「在る」を作った人工都市が「東京」なのだ。しかし、ここでは歴史の話をしたいのではない。
寿司で考えてみる。その「方法」が海を越え、カリフォルニアロールとなって返ってきたことがあった。我々はそのむちゃさに驚いたが、それは文脈が無視されているから感じるのである。私が「東京」あるいは「東京的」が好きなのは、この文脈が薄いところにある。無いわけではなく薄いというのがポイント。この「文脈」は、田舎だと「地縁、血脈、門閥」ということになる。先の例えで言えば、寿司というフォーミュラ(規格)が輸出されたことで新たな発想が返ってくるのだが、伝統や美学という脈に縛られると大きな変化はしづらくなる。これは良きあしきではない。土地風土の独自性、気候環境によって生まれるものは、生活と絡まり、動かしがたい習慣に落ち着く。“土地としての東京”にだってそういうものは当然ある。