黄島は、眠ったような島だった。初めて訪ねた17年4月の時点で人口は40人。多くが高齢者。島には延命院という真言宗の寺がある。開祖は元禄2(1689)年。港周辺だけにしか人が住んでいない小島に真言宗の寺があるというのは島の歴史を感じさせた。

 黄島周辺は、昔から外国船の往来が多い地域で、寛永14(1637)年に五島藩は、黄島をはじめ7カ所に遠見番所を設置し、船の往来を監視、通報させている。黄島は外国船が東シナ海を通って真っ先にやってくる位置にあった。対馬海流が五島列島にぶつかるように北上しているからだ。

『五島編年史』という史料を見つけた。江戸時代の五島藩の記録をまとめたものだ。驚いたのは、唐船や朝鮮などの船が相当な頻度で五島に漂着していたことだ。天和年間(1680年代)の記録に次のような記述があった(以下、現代語表記で)。

「異国船の五島領内に漂着せるを認めたる時、発見者はいち早くこれを最寄りの代官に報ず」「福江より人を派して保護監視し、難破の状況に応じて適切なる処置を講じ、長崎に曳航せしむ」

 寛政10(1798)年、(五島藩が)「長崎にて唐通詞(ママ)頴川藤吾を召し抱ふ」とある。享和2(1802)年11月、いまの上五島に90人が乗った唐船が漂着、通事の頴川真助を(五島藩が)差し出している。

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 黄島との関係を示す記述も見つかった。文政11(1828)年12月、黄島に唐船漂着。船は警固役が長崎に送り、「質唐人は別船にて頴川丑之助附添出崎す」とある。頴川丑之助は、この5年前にも黄島に漂着した唐船を護送していた。丑之助は、福江で通事として仕事をした記録が残っている。唐船が漂着した際、福江から黄島に派遣された可能性があった。しかし丑之助が黄島に住んでいたことを裏付ける記録は書かれていなかった。

 長崎の郷土史家、原田氏はこう話す。

「黄島は(外国船が渡来する)最前線ですから、常駐しなくとも頻繁に中国船が現れる時期に黄島に行き、拠点を見つけて住み着いたこともありえます」

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