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 ロシアによるウクライナ侵攻から1年、日本に逃れたウクライナ避難民はいま、どんな心境なのか。ハルキウから愛知県大府市に避難しているマリ・カテリナさんが語ってくれた。AERA 2023年2月27日号から。

【写真】プーチン氏の顔写真とともに「間抜けなプーチン」と書かれた火炎瓶

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 昨年2月24日のことは、忘れることができません。

 私は生まれ故郷であるウクライナのハルキウ(北東部、ロシアと国境を接する町)で、エンジニアの夫(39)と娘(11)、息子(7)の4人で暮らしていました。

 朝の4時半頃、強烈な爆撃音で目が覚めました。夫が「早く! 避難の準備をして!」と叫びました。私たちは最低限の服と貴重品だけ持ち、車に乗り込もうと外に出て、驚きました。1キロほど先の爆撃で、空が真っ赤に染まっていたんです。あれほど不気味で、恐ろしい思いを抱いたことはありません。

 友人の家族2人と計6人で向かったのは、ハルキウ中心部に住む夫の母親の家でした。郊外にある私の家よりは爆撃地から遠かったんです。1週間そこで過ごしましたが、危険なことに変わりはなく、「もっと西へ避難しよう」と決めてリビウ(西部の町)に電車で向かいました。そこに4日間滞在し、国外に逃げることを夫と話し合いました。

 ウクライナでは18歳から60歳の男性は原則、国外に出られません。悩んだ末、夫はリビウに残り、私は友人の家族と5人でバスでポーランドへ向かい、最後は徒歩で国境を越えました。寒い中、3時間も歩き続けて疲労は極限でしたが、何とかポーランドの避難所に着くことができました。

■「会えないのは同じ」

 そこにはドイツやフランス、イタリアなど行き先の異なるバスが数台止まっていました。どの国に避難したいか、選ぶことができると言われました。考える時間は1時間ほど。友人がドイツに友だちがいたので、私たちはドイツを選びました。また4時間バスに揺られ、ベルリンに行ったんです。

 ベルリンではホテルに1週間、その後は知人の紹介で2カ月間、西部の町クレーフェルトにあるドイツ人家族が住む家で生活しました。静かで自然豊かな町で、ドイツ人の家族も子どもにお菓子や服をプレゼントしてくれたり、やさしい人たちでした。

 でも、大きな部屋とはいえ、他の家族と一緒の生活は簡単ではありませんでした。新しい国、新しい言葉……すべてが初めてのことばかり。私たちは強いストレスを感じていました。

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